6. 新経済政策 (ネップ) と通貨制度の再建
1921年3月に開催された第十回党大会において 「農産物の強制的な割当供出の現物税への転化と
部分的な商品経済の法的容認」 が決議され、戦時共産主義から新経済政策 (ネップ) への
政策転換が図られた。
これによって、農民の生産意欲を奪う余剰農産物の徴発が廃止され、農民は納税後の余剰を
自由に処分することができるようになった。
また、私的商業と小規模な私的工業も合法化され、1921年5月17日には 「あらゆる小工業を
国有化させる布告」 が廃止され、7月7日には全ての国民に対して 「自由に手工業生産に従事し、
また小工業施設を組織する」 権利が与えられた。
労働者の賃金は再び現金で支払われるようになり、1921年7月から8月には公共便益も再び有料となった。
食糧の配給は1921年11月10日に廃止されている。
このように、現物経済から貨幣経済へ復帰していくに伴い、 「無価値な色付き紙」(ソヴェト紙幣) を
安定した通貨に変える必要性は切実なものになってきた。
その手始めとして、1921年11月3日に平価切下を断行し、旧来の紙幣1万ルーブルを1ルーブルとして
通用させ、新しく 1922年様式の紙幣 を発行した。
更に1922年10月24日には第二回目の平価切下を行い、1922年様式紙幣100ルーブル (従って、
それ以前の紙幣では100万ルーブル) を、1923年様式紙幣 1ルーブルに相当するものとした。
つまり100万の桁が省かれたことになる。
しかし、このように二度の平価切下が行われたにもかかわらず、ソヴェト紙幣 (ソヴズナク) は依然として
激しい減価を続けていた。
経済政策の転換によって貨幣経済化が法的に許容されたが、安定通貨の出現まで
直接的商品交換の形態はしばらく続いた。
それは、商品に一定の交換比率を定めて現物的な商品取引を行うもので、例えば、
穀物と工業製品との間には3対1の比率が決められていた。
しかし、これらの交換比率は全く現実にそぐわないものであり、国内経済に混乱を生じさせていた。
そのため、より安定した取引決済の尺度を求める努力が続けられた。
その最初の試みとして、1921年11月5日に人民委員会は、1922年1月−9月の予算の計算基準として
大戦前の1913年の物価指数によって換算する、いわゆる 「戦前ルーブル довоенный рубль」 を採用することを決定した。
そこでは、1921年10月1日当時の1ルーブルの価値を1913年の六万分の一であるとしたが、
急速な通貨の減価によってこの数字も絶えず下落しており、しかも現実の物価上昇は
これより遥かに激しく、計算基準として極めて不適当なものであったことからこの戦前ルーブルは
1922年3月30日に廃止された。
1922年4月29日には、4月1日以降の決済は国立銀行の金買入価格を基にした 「金ルーブル золотой рубль」
によって行われることが布告され、その後、8月25日に外貨・貴金属・金ルーブルの相場を
定める特別相場委員会が設置されて金ルーブルは外貨相場と相応されるようになった。
また一方、戦前ルーブルの考え方は 「商品ルーブル товарный рубль」 として引き継がれ、
商品価格を定める基準として適用されるなど、安定した通貨制度が確立するまで多様な
計算尺度が用いられていた。
この場合の 「金ルーブル」 は、大戦前の金本位制度のもとでの、あるいは1924年2月に制定されることになる通貨単位とは異なる。
これは実際の貨幣の単位ではなく、単に観念的な単位に過ぎず、またそれは特殊な方法によってのみ運用され得るものであった。
「商品ルーブル」 :
その時のソヴェト紙幣によって、おおよそ戦前の1ルーブルに相当する商品を購入することのできるソヴェト紙幣の額を1商品ルーブルとした。
1921年10月にロシア社会主義連邦ソヴェト共和国国立銀行定款が発表され、国立銀行の活動が再開された。
(その名称は1923年7月6日にソヴェト社会主義共和国連邦国立銀行と変更されている。)
その翌年10月11日には新しい国立銀行券である チェルヴォネツ紙幣 が1、3、5、10、および 25チェルヴォネツの額面で発行された。
(額面2および50チェルヴォネツの紙幣の発行も規定されていたが、実際には流通しなかった。)
チェルヴォネツ紙幣は貴金属および金に対し相場が安定した外貨によって保証されており、
1チェルヴォネツは純金1ゾロトニク78.24ドーリャ (7.74234g) を含有するものとされたが、
これは帝政時代の10金ルーブルとまったく同一である。
そして、その裏付けとして1923年に チェルヴォネツ金貨 が発行された。
しかし、チェルヴォネツ金貨の製造数量は極めて僅少であり、事実上まったく流通しておらす、
またそれはチェルヴォネツ紙幣をすぐさま兌換するものではなかった。
チェルヴォネツ紙幣 (国立銀行券) は金によって兌換されるべきものであるが、
その引換は当面行われす、引換開始時期は別途法令によって規定されるものと
されていた。 しかし、チェルヴォネツ紙幣の金兌換は結局行われておらす、
1946年にチェルヴォネツは廃止されて、ソヴェト連邦の貨幣の単位はルーブルに
統合された。
1922様式国立銀行券 (1チェルヴォネツ紙幣) とチェルヴォネツ金貨
1922様式国立銀行券 (チェルヴォネツ紙幣)
チェルヴォネツ金貨 (1923年)
流通当初には有価証券としての色彩の強かったチェルヴォネツ紙幣は急速に流通面へ浸透したが、
その一方で、政府は膨大な財政赤字に対処するためソヴェト紙幣 (ソヴズナク) の発行を継続せざるを得なかった。
ソヴェト紙幣は減価し続けており、そのため発行紙幣の額面を常に増加させなければならなかった。
1923年11月5日には額面 10,000ルーブルの紙幣の発行に関する法令が公布され、
同年12月18日に額面 15,000ルーブル紙幣の発行を規定し、
更に1924年2月7日には額面 25,000ルーブル紙幣の発行が布告されている
(è 1923年様式ソヴェト社会主義
共和国連邦紙幣)。
また、1923年9月には、鉄道および河川・海上運輸のための資金増強を日的とした無利息短期債券として、
額面5金ルーブルの 運輸証券 が発行されたが、
この証券は価値が安定しており、またチェルヴォネツより低額面であることから、
チェルヴォネツの補助貨幣として、運輸関係のみに留らず広く支払手段として利用された。
1922年後半から1924年春までのロシアの通貨事情は、チェルヴォネツ紙幣とソヴェト紙幣の
二系統の通貨が共存する二元的通貨制度のもとにあったが、
この二系統の通貨の間には法定の交換比率はなかった。
貨幣流通においては、絶えず価値の下落が続くソヴェト紙幣から、より安定した通貨である
チェルヴォネツヘの逃避が行われ、チェルヴォネツ紙幣の流通高の割合は急速に増大してきた。
チェルヴォネツ相場換算による貨幣流通高 (単位はチェルヴォネツ・ルーブル)>
年月日 |
ソヴェト紙幣 |
国立銀行券 |
運輸証券 |
合計 |
1923年1月1日 |
113,969.4 (97.0%) |
3,562.5 ( 3.0%) |
|
117,531.9 (100.0%) |
4月1日 |
148,400.7 (85.3%) |
25.666.9 (14.7%) |
|
174,067.6 (100.0%) |
7月1日 |
118,834.2 (62.9%) |
70,001.4 (37.1%) |
|
188,835.6 (100.0%) |
10月1日 |
74,384.3 (26.4%) |
207.359.5 (73.5%) |
250.0 (0.1%) |
281,993.8 (100.0%) |
1924年1月1日 |
75,212.5 (23.4%) |
237,158.9 (73.6%) |
9,575.6 (3.0%) |
321,947.0 (100.0%) |
4月1日 |
15,246.2 ( 3.9%) |
289,668.2 (73.6%) |
20,786.8 (5.3%) |
(注) 393.451.1 (100.0%) |
(注) 新国庫紙幣、金属通貨、小額支払証券の 67,749,900チェルヴォネツ・ルーブルを含む。
チェルヴォネツ紙幣 (国立銀行券) が流通市場に定着したことで、
第一次大戦勃発以来10年に及んで混乱していたロシアの通貨制度はここに完全に復興し、
ソヴェト政府による通貨改革はほぼ完了したことになるが、更にこの改革を完結するものとして、
1924年2月から3月にかけて次のような諸法令が公布された。
1924年2月5日 〔新しい国庫紙幣の発行に関する法令〕
財務人民委員部(財務省)は 1、3、5金ルーブルの新しい
国庫紙幣 を発行し、法貨として通用させた。
その発行高はその当日までに発行されたチェルヴォネツ紙幣の発行高の半分以下に制限された。
2月7日、国立銀行はこの法令に対して新国庫紙幣受領の宣言を行ない、1チェルヴォネツは
10金ルーブルに相当するものとして何等の制限もなく国庫紙幣を受領し、
また自由に同率でチェルヴォネツと国庫紙幣とを交換することにした。
1924年2月14日 〔ソヴェト紙幣の印刷の停止〕
2月15日以降、ソヴェト紙幣の印刷および財務人民委員部 (財務省) の保有しているものの
発行を禁止した。
1924年2月22日 〔銀貨および銅貨の発行に関する法令〕
財務人民委員部は ソヴェト連邦の様式の銀貨 および 銅貨 を発行した。
銀貨は1ルーブル、半ルーブル (50コペイカ) および 20、15、10コペイカの5種類、
銅貨は5、3、2、1コペイカの4種類とし、その後、1925年には半コペイカ (1/2コペイカ)
銅貨が追加された。
そして、国庫紙幣と金属通貨の平価を維持するために、金属通貨1ルーブルは
国庫紙幣1ルーブルに等価であるべきことが宣言され、
1ルーブルと半ルーブル銀貨は 25ルーブルまで、その他の銀貨と銅貨は3ルーブルまで
法貨として通用した。
更に、これらの金属貨幣が流通に十分な量まで準備される間の暫定的処置として、
後日銀貨および銅貨と交換されるべき 50コペイ力までの低額面の
支払証券 が臨時に発行されている。
また、これより先、1921年4月に財務人民委員部において、
銀貨の製造に関する問題が審議されており、
1918年に部分的に解体されていたベトログラード造幣局が再建され、
ロシア連邦共和国様式の1ルーブルおよび 50、20、15、10コペイカの5種類の銀貨
の製造が行われた。
これらのロシア連邦共和国様式の銀貨は暫時備蓄されていたが、
ソヴェト連邦様式の銀貨 と共に1924年に発行された。
1924年3月7日 〔ソヴェト紙幣の回収に関する法令〕
1923年様式のソヴェト紙幣5万ルーブルが1924年様式国庫紙幣1金ルーブルに相当するものとして、
1924年3月10日より流通市場のソヴェト紙幣が回収されることになった。
既に1922年10月24日の平価切下によって1923年様式紙幣1ルーブルは1922年様式紙幣
100ルーブルに相当しており、更に1921年11月3日には、1922年様式紙幣1ルーブルは
それ以前の紙幣1万ルーブルに切下げられている。
従って、この通貨改革によって実施された平価切下率は 500億となったことになる。
1924年3月22日 〔ソヴェト紙幣の法貨としての期間に関する法令〕
1924年5月10日までは1金ルーブルに対して1923年様式のソヴェト紙幣5万ルーブルの
公定比率で法貨として通用し、同年5月31日まで財務人民委員部および国立銀行で
交換されることになった。
〔 通貨改革 その後 〕
1922−24年の通貨改革によって、ソヴェト連邦における貨幣流通制度は暫く安定していたが、
間もなく第一次五カ年計画が実施されるや、国立銀行券、国庫紙幣、補助貨幣の発行高が漸増し、
ソヴェト通貨はふたたび動揺しはじめた。
更に、不安定な国際的政情はソヴェト経済を戦時経済態勢へと引きずり戻し、
遂に独ソ開戦 (第二次大戦) となるに至り、ソヴェト連邦の貨幣経済は新たな
至難の時代へ突入することになる。
è
[年表] ロシア通貨の変遷 (社会主義的工業化の時代) (
革命と内戦の時代 /
社会主義的工業化の時代 /
市場経済化の時代 )
è
ソヴェト貨幣について
はじめに /
序.ロシアにおける金本位通貨制度の実施 /
1. 帝政ロシア末期の貨幣流通 /
2. 第一次大戦下の通貨事情 /
3. 臨時政府の通貨発行 /
4. 十月革命とソヴェト政府の通貨政策 /
5. 国内戦争と戦時共産主義の時代 /
6. 新経済政策と通貨制度の再建 /
全国的通貨 /
地域通貨
アルマヴィル貨幣の歴史的考察 /
非貨幣交換のための貨幣代用物 /
団結は力なり ― 消費組合の代用貨幣 /
ロシア革命史 (年表)
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