1. 帝政末期の貨幣流通
金本位制に基づく帝政末期のロシアの貨幣流通制度は概ね次のようなものであり、
これは 20世紀初頭の経済恐慌や農業危機、あるいは日本との戦争など、たび重なる
災厄にみまわれたにもかかわらず、1914年夏に第一次大戦が勃発するまでは比較的安定していた。
1. 貨幣の単位と種類
1897年の幣制改革によって、ロシアの貨幣の単位は純金 17.424ドーリャ (0.774234g) を含む
金ルーブルであると定められた。
その流通貨幣としては、本位金貨幣、補助貨幣 (高額面銀貨、低額面銀貨、銅貨) および
金兌換を保証された国家信用券 (国立銀行券) の3種類があり、そのほか商業の中心地では、
貨幣の代用物として卸売商の間で僅かながら特殊な国庫証券などが流通していた。
2. 本位金貨幣
金貨はロシアの貨幣流通制度の基礎を成す完全な実体価値を持った本位貨幣であって、
1899年の貨幣法で自由造幣制が規定された無制限の法貨である。
金貨は5ルーブルおよび 10ルーブルの額面で製造されたほか、1897年の幣制改革以前の
インペリアルに価値の等しい 15ルーブルと、その半分の価値を持つ半インペリアル、
すなわち 7 1/2ルーブルの金貨が流通していた。
金貨は法定の量目と品位を具備しなければならず、その公差は、法定量目に対して、
15ルーブル金貨は 0.013、10ルーブルおよび 7 1/2ルーブル金貨は 0.02、5ルーブル金貨は 0.003を
超過あるいは低下することができない。
また、品位に関しては、法定品位 (900/1000) の千分の一を超過あるいは低下してはならず、もし、
その量目および品位の公差がこれらの限度を越える場合には、金貨は額面価格ではなく
金の重量に準じて通用するものとされた。
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3. 補助貨幣
補助貨幣としては高額面銀貨、低額面銀貨および銅貨が流通しており、それらの金属素材の価値は
名目価格よりも低い。
これらの補助貨幣については、当然のことながら、その自由造幣制は適用されていない。
高額面銀貨
比較的高額面の1ルーブル、50および 25コペイカの3種類の銀貨は 1000分中900 の品位を持ち、
これらの高額面銀貨1ルーブルは銀4ゾロトニク21ドーリャ (17.996g) を含んでいる。
従って、金1対銀 34.34 の金銀比価のもとにあった 1897年の幣制改革当時には、
その金属素材の価値は名目価格の約 67%であった。
これらの高額面銀貨は 25ルーブルまでの制限法貨であった。
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低額面銀貨
低額面の補助貨幣としては、20、15、10、5コペイカの4種類の額面で発行されていた。
これらの低額面銀貨は 1000分中500 の品位を持ち、その1ルーブル分の銀含有量は高額面銀貨の半分である。
従って、幣制改革当時には、その金属素材の価値は名目価格の 33−34%に等しかった。
これらの低額面銀貨は3ルーブルを超えない額まで制限法貨であった。
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銅貨
銅貨としては、5、3、2、1、1/2 および 1/4コペイカの6種類の額面で発行されていた。
この時代には、銅1プード (16.38kg) で 50ルーブルに相当する銅貨が製造されており、
銅貨の素材価値は名目価格の五分の一に等しかった。
これらは3ルーブルまでの制限法貨であった。
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銀貨および銅貨は国庫より発行され、1899年の貨幣法では、銀貨の流通量は国民1人当り
3ルーブルまでと規定されていた。
1913年当時のロシア帝国の人口は1億5900万人を数えており、従って法規の上では、
独自の貨幣制度を保持していたフィンランドを除いても4億6500万ルーブルを超える
銀貨を流通させることができることになっていた。
しかし、この時期の銀貨の流通量は2億2500万ルーブル程であって、法定限度の半額にすら達しておらず、
この規定は実際には極めて多大なものであったといえる。
銅貨の発行高に関しては特に規定されておらず、財務大臣にその権限が委ねられていた。
4. 国家信用券 (国立銀行券)
国立銀行は、1897年8月29日 (9月10日) の発行紙幣に対する正貨確保の法律に基づき、
"国家信用券" の名称で額面1、3、5、10、25、50、100 および 500ルーブルの金兌換を原則とする
銀行券を発行した。
金で表現され、かつ金で完全に保証されたこの紙幣は金貨と同様に無制限の法貨であった。
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金本位制の実施から第一次大戦勃発までの間、国家信用券の流通高とそれを保証する金準備額は
別表 「国家信用券の流通状況と金準備額」 のように
なっていたが、この時期、国立銀行は金準備を伴わずに 3億ルーブルまでの国家信用券を
発行できることになっていた。
また、金準備には金貨や金地金のほか、在外銀行の預託金も算入されているが、信用券の流通に対する
金準備は概ね確保されていたものと考えられる。
1890年代に著しく進展したロシアの産業経済は、1900年から1903年にかけて恐慌に陥り、
その後1906年まで不況が続いた。
この時期には、労働運動や農民運動が激化し、社会不安が増大しており、これら社会危機を
回避するために始められた 日露戦争 (1904〜05年) はかえって社会不安を深刻にし、1905年、遂に革命を引き起こした (第一次革命)。
1907年になるとロシアの産業は好調に転じ、1909年以後の軍需に支えられたロシア経済の
資本主義的発展は著しい。
この時期に工業の企業数は約3倍、資本金額で 3.5倍に増大し、工業の生産力は急速に向上しているが、
しかしなお、ロシアは工業技術においても生産性においても先進資本主義諸国に大きく立遅れており、
劣悪な労働条件と低い賃金水準は労働者の生活を圧迫していた。
また、1906年から1911年にかけて実施されたストルィピンの農業改革によってロシアの農村社会は
急激に変化し、その不均衡な発展は社会的・政治的な緊張をもたらした。
ロシアでは、1913年の1人当りの国民所得は 101ルーブルであったが、これはイギリスの 21.8%、
フランスの 28.5%、ドイツの 34.6%、オーストリア・ハンガリーの 44.5%にすぎなかった。
1913年の各国の国民所得 (単位:1人当りルーブル)