ロシア革命の貨幣史 |
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アルマヴィル貨幣の歴史的考察 |
ロシア全土が動乱のさなかにあった1918年、北カフカスの アルマヴィル市 に置かれた国立銀行の地方支店は3種類の額面の金属貨幣 (アルマヴィル貨幣 металлические боны Армавира) を発行している。
アルマヴィル貨幣の形状 アルマヴィル貨幣は1、3、5ルーブルの3種類の額面で発行されているが、これらの図柄は概して共通である。 |
表面 |
貨幣中央部に、翼を広げた 「無冠双頭の鷲」 を描いた 臨時政府の紋章 と、その周囲に "国立銀行アルマヴィル支店" の刻名。 紋章の下に "Ј.З." の小さな刻印 が打たれている。 |
裏面 |
両側を月桂樹の枝で囲まれた額面表記と、その下には年号の "1918"。 上部に貨幣代用物であることを示す表示。 |
試作貨幣 通常貨幣
上記の銅貨以外に、銅以外の金属を素材とした試作貨幣も製造されている。 贋造品に注意されたい。 è アルマヴィル貨幣の贋造品 |
アルマヴィル市の概観 大カフカス山脈の巨峰エルブルス山 (標高 5,642 m) に源を発し、山麓北側を流れて アゾフ海に注ぐクバン河の流域は、18世紀以降にロシアやウクライナから移住してきた コサックによって開拓された豊沃な穀倉地帯である。 コサックとは、元来ロシアの南部の辺境に自由を求めて逃亡してきた農民や都市貧民の 社会集団であったが、特に、帝制ロシア政府は彼らを辺境守備の軍事的組織として 積極的な活用を図ったことから、特殊な閉鎖的軍事身分を形成するに至り、 それは勇猛な 「コサック軍団」 として広く知られている。 クバン河流域は、現在はクラスノダール州と名を変えているクバン州に編成されており、 州都のエカテリノダール市 (現在のクラスノダール市) は18世紀末にザポロジェの コサック兵舎が置かれたことによってその基礎が作られた都市である。 クバン州は北側に隣接するドン軍州と並ぶコサックの有力な本拠地で、1916年当時には 全住民 289万人に対して実に 48% に当たる 137万人がコサック身分に属していた。 1839年、クバン河がカフカス山麓からクバン低地に流れ出る地点の左岸にアルマヴィルの 基礎が置かれ、1914年には都市としての形態を整えた。 アルマヴィル貨幣はその4年後に発行されたことになる。 ロシア革命当時、アルマヴィル周辺には農業のほかには、これといった大きな産業基盤はなく、 半家内工業的な零細工業が中心であったが、 アルマヴィル市は、ドン河口のロストフ市とカスピ海沿岸の世界有数の石油生産都市 バクー市とを結ぶウラヂカフカス鉄道の要衡を成し、北カフカスの主要な商業都市であった。 また、穀物やひまわりの広大な徴収倉庫があった。
アルマヴィル−1918年 アルマヴィル貨幣が発行された 1918年当時のクバンの政治情勢は流動的であった。 二月革命後間もなく、1917年4月9日 (22日) にクバン州では上層コサックの指導の下に 反革命的なクバン地方ラーダ (評議会) が設立され、その執政機関として軍政府が組織されていた。 首都ペトログラードで十月革命が勃発すると軍政府はクバンに戒厳状態を宣言したが、 翌 1918年の1月には州の各地でソヴェト権力が樹立されており、アルマヴィル市においても 1月7日(20日) にソヴェトが権力を掌握している。 また、3月14日にはクバンの反革命の中心であったエカテリノダール市が赤軍に占拠され、 これをもってクバン州全域でソヴェトが権力を確立した。 その後、反革命白衛義勇軍との激しい攻防が繰り返される中で、1918年4月13日、 この地域にクバン・ソヴェト共和国が成立し、引き続く反革命勢力の攻勢やドイツおよび 連合国列強の軍事干渉に対抗するためにクバン黒海ソヴェト共和国 (5月3日)、 さらに北カフカス・ソヴェト共和国 (7月7日) へと周辺に隣接する地方ソヴェトの領域と 拡大統合している。 しかし、1918年8月17日には干渉軍の支援を受けて軍事的に優勢になった白衛義勇軍によって 北カフカス・ソヴェト共和国の中央執行委員会 (共和国政府) はエカテリノダール市から ピャチゴルスク市への撤退を余儀なくされ、エカテリノダール市には再び反革命の クバン州政府が成立した。 アルマヴィル市は9月19日に白衛軍に占拠されたが、9月26日には再び赤軍部隊が一時的に 奪回するなど、その年のアルマヴィル市を取り巻く情勢は緊迫していた。 1918年の末までに北カフカスの主要部分は白衛軍によって制圧され、北カフカス・ソヴェト 共和国はその活動を停止した。 クバンで再度ソヴェトが権力を確立するのは 国内戦争終結まぢかの1920年3月である。
当時のロシアの貨幣流通は、通貨の膨脹によって物価が急騰し、そのため極度の通貨不足を
引き起こすといった逆説的状況の中で、中央・地方を問わず多種多様な発行に係る紙幣や
貨幣代用物が間断なく現れては騒乱の渦中に消え去っていた。
アルマヴィルの金属貨幣がつかの間を閃いたのは、この通貨氾濫の時代をかいま見た瞬間であった。
アルマヴィル貨幣の製造 アルマヴィルは1917年の秋に深刻な 「通貨飢饉」 に陥った。 この年の食糧徴収はほとんど戦前の平年量に達していたが、物価高騰のために2倍以上の資金が必要になった。 しかし、不安定な政治情勢のために中央との連絡が遮断され、そこからの資金の入手がまったく途絶えていた。 この年の秋は信用取引によってかろうじて危機を回避できたが、1918年初頭には地方政権は堅固な通貨補強のために地域通貨を発行することを余儀なくされ、国立銀行アルマヴィル支店から 証票 Твердый гарантированный чек を発行することを決定した。 この証票の発行には、アゾフ・ドン銀行、ヴォルガ・カマ銀行、ロシア・アジア銀行、 ロシア外国貿易銀行、北カフカス銀行、貿易工業銀行などのアルマヴィル支店、および 第2アルマヴィル相互信用協会が関与した。 国立銀行アルマヴィル支店の証票は、「近々ペトログラードから受け取るであろう 国家信用券と交換される」 ことを条件に、第1次分として1918年2月に、 額面 50、100、200、500ルーブルで総額400万ルーブルが発行された。 この証票は、発行後まもなく、全国的通貨であるロマノフ紙幣やケレンスキー紙幣を駆逐し始めた。 1918年夏、地方政権はモスクワからツァリツィンを経由して受け取った全国的通貨で 証票との交換を始めたが、大量の偽造が発見された。 そのため地方政権は、偽金を避けるため、そして小額面の証票に耐久性がないことから、 金属貨幣を発行することを決定した。 貨幣は銀貨を発行することも予定されていたが、銀の手持ちが不足していたために 銅で製造することになった。 アルマヴィルの商人バロノフ (Егор Никитич Баронов) の旧邸の建物のひとつが造幣所として緊急に割り当てられ、そこに3体の造幣機械が設置された。 貨幣の素材となる銅を得るため、近郊のワイン醸造工場の銅製のタンク、銅管、銅の容器などが熔解された。 貨幣の極印の制作には、この当時アルマヴィルに在留していたヨーゼフ・ザドラー (ヨシフ・ザドレル Іосиф Задлер; нем. Joseph Sadler) というオーストリア人捕虜が携わった。 この貨幣に描かれた紋章の下部にある小さな刻印 "Ј.З." (正しくは、"І.З." の筆記体表記) は彼のイニシャルである。 "І" は旧正字法のロシア文字 「イー・ス・トーチコイ (и с точкой)」。 その筆記体は、ラテン文字 "I" のドイツ式筆記体とほぼ同形。 限られた設備・資材のもと、当時の厳しい環境にあって、このような端正な図柄の 貨幣を作り得た彫金師ザドラーは卓越した貨幣職人であった。 貨幣は初めに銅 (額面1および3ルーブル) とアルミニューム (額面5ルーブル) で試作され、 見本として銀貨 (額面3ルーブル) が10枚ほど製造された。 続いて額面1、3および5ルーブルの通常貨が、銅でのみ総額およそ6万ルーブル製造されている。 これによってアルマヴィル地方の 「通貨飢饉」 が如何ほど緩和されたかはさておき、 この当時、ロシア国内の物価は高騰しており、1918年8月には1ルーブルの価値が大戦前の 1コペイカ以下に減価している。 そのため、アルマヴィル貨幣の流通していた期間は極めて短かったものと考えられる。 貨幣の回収に関しては明らかでないが、後年金属資源の欠乏が激しくなったことによって、通貨として無価値になってしまったアルマヴィル貨幣の多くは再び熔解されてしまったのであろう。
[参考文献]
はじめに /
序.ロシアにおける金本位通貨制度の実施 /
アルマヴィル貨幣の歴史的考察 /
非貨幣交換のための貨幣代用物 /
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