ロシア革命の貨幣史 |
5. 国内戦争と戦時共産主義の時代
1918年中頃から 1920年末までの数年間はロシアの多くの地域が内戦の直接的影響のもとに置かれていた。 十月革命後直ちにソヴェト政府は平和に対する国民の期待に応えて、 無併合、無賠償、民族自決に基づく和平交渉のため、休戦を交戦国各国に呼び掛けた。 それに対して、戦局の転機を求めるドイツとその同盟諸国はこの提案に応じたが、 連合国側はこれを黙殺した。 そこでソヴェト政府は 1917年12月9日、ポーランド国境のブレスト・リトヴスクで ドイツとの講和交渉に入った。 しかし、ドイツ・オーストリア軍は 1918年2月18日にロシアの穀倉ウクライナヘ進攻し、 スコロパツキー傀儡政府 を樹立している。 1918年3月3日に締結されたドイツとの単独講和は、広大なドイツ占領地帯の割譲を代償として、 新生ソヴェト政権にもたらされた短い息継ぎであったが、ソヴェト革命を脅威とし、 ロシアの戦線離脱を不満とする連合国にロシアヘの直接的軍事介入の口実を与え、 早くも3月5日にはイギリス軍部隊が北ロシアのムルマンスクヘ上陸した。 (日本の軍部はこれより早く、1月4日にウラジヴォストクの居留民保護を名目に、 陸戦隊を派遣している。) そして、5月にはシベリア鉄道沿線で対ソ干渉の発端をなす、 いわゆる 「チェコスロヴァキア軍団」 の反乱が勃発し、 それを支援する連合国の大量出兵が8月に開始された。 (8月2日にイギリス軍はアルハンゲリスクに上陸しており、 また日本の大規模なシベリアヘの出兵宣言も8月2日に出されている。) 一方、連合国の軍事干渉に呼応してロシア国内に散在する反革命勢力は集結しはじめ、 連合国と連携してソヴェト政府を脅かした。 1918年の夏には中部ロシアを除く国土の大半が列強の干渉軍と反革命白衛軍に制圧され、 ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国は最大の危機に直面した。 北部ロシアにはアルハンゲリスクにイギリスの傀儡政権 「北ロシア臨時政府」 があり (1918年8月2日成立)、 西北ロシアおよびエストニアでは ユデニチ軍 がペトログラードを窺い、 数度の進攻を試みた。 南ロシアにはコルニロフ将軍の白衛軍を継承する デニキン軍 が猛威をふるっていた。 また、イギリスをはじめとする連合国の絶大な支援を背景にしたオムスクの コルチャーク政府 がシベリアからウラルに及ぶ 広範な地域を制圧して、1919年春にはモスクワをめざして進撃を開始し、 極東では日本軍の支援を受けた セミョーノフ白衛軍 が赤衛軍部隊と対峙していた。 このような状況の中でソヴェト政府は、反革命勢力との軍事対決および連合国による 対ソ干渉戦争と経済封鎖などの内外の危険からロシアを防衛するため、 国内の交通・産業・資源を統制した 「戦時共産主義」 と呼ばれる 戦時非常政策を採ることを余儀なくされた。 1918年6月28日の法令で全ての大工業が国有化されていたが、 同年 11月29日の法令によってソヴェト政府は大工業のみならす、中小工業をもその管理下に置いた。 また、商業も国有化されて私的商取引は全面的に廃止され、1918年11月21日からは 生活必需品の配給制が実施されて、労働者の賃金の多くは現物で支払われるようになった。 |
貨幣賃金と現物賃金の比率の推移
年次 |
貨幣賃金 |
現物賃金 |
1917年前期 |
100 |
|
後期 |
93.8 |
6.2 |
1918年前期 |
79.7 |
20.3 |
後期 |
72.1 |
27.9 |
1919年前期 |
41.6 |
58.4 |
後期 |
30.4 |
69.6 |
1920年1/4期 |
18.0 |
82.0 |
2/4期 |
14.8 |
85.2 |
3/4期 |
18.6 |
81.4 |
4/4期 |
12.8 |
87.2 |
1921年1/4期 |
6.8 |
93.2 |
また、農民に対しては、1919年1月11日の法令によって食糧徴収制度が実施された。 これは、これまでの公定価格による買上制に代わって農産物の強制的な割当供出 (徴発) を課するもので、武装した食糧徴発隊を派遣して 「余剰農産物」 を強制的に押収した。 労働者は農民から工業の復興までの貸付けとして食糧を得たのである。 しかし、有産農民はこのような強制的な食糧徴発に対して激しく抵抗し、 各地で反乱が頻発しており、特に 1919年にはウクライナや黒海沿岸で無政府主義的な強力な 農民軍が組織され、いわゆる 「緑軍」 として赤軍と白軍の両方に対抗した。
この時期、ロシア国内には多種多様な紙幣が流通していた。
同じ貨幣単位で表わされていたにもかかわらず、それぞれの紙幣の持つ購買力は同一ではなかった。
1920年1月19日には、信用機関としての機能を失った人民銀行が解体され、 その資産と負債は財務人民委員部の中央予算会計部に移管されている。 1920年から 1921年の初頭にかけて、国家による生産物の無償支給、 運輸・郵便・電信設備および自治体便益などの無償利用に関する一連の法令が公布され、 国民への物資や労賃の無料配給が行われるようになった。 また、全ての国有企業の財源は国家予算から支出される返済不要の交付金によって賄われていた。 企業の全生産額は国家に無償で引渡されて、企業および施設の相互間の決済は 全く紙幣の介在なしに帳簿記入によって行われ、1920年6月15日の法令で国有企業および 施設の相互間の貨幣支払を禁止さえした。 このような状況の中においても紙幣は乱造・乱発されており、絶対的な品不足の中で私的商業、 すなわち 「闇市場」 が激増していた。 通貨の膨張速度には凄まじいものがあったが、それをも凌ぐ闇市場での物価の高騰と 現物経済への傾斜は貨幣の効力を更に低下させた。 |
通貨の現実価値の低下
年月日 |
貨幣流通高 |
流通貨幣総額の |
現実通貨量 |
1917年11月1日 |
195億7740万ルーブル |
19億1940万ルーブル |
82.70 |
1918年1月1日 |
276億5020万ルーブル |
13億3190万ルーブル |
57.39 |
7月1日 |
437億1190万ルーブル |
4億9360万ルーブル |
21.27 |
1919年1月1日 |
613億2620万ルーブル |
3億7390万ルーブル |
16.11 |
7月1日 |
1010億3070万ルーブル |
1億5400万ルーブル |
6.64 |
1920年1月1日 |
2250億1520万ルーブル |
9300万ルーブル |
4.01 |
7月1日 |
5118億1580万ルーブル |
6290万ルーブル |
2.71 |
1921年1月1日 |
1兆1685億9690万ルーブル |
6960万ルーブル |
3.00 |
7月1日 |
2兆3471億6410万ルーブル |
2910万ルーブル |
1.25 |
現実通貨量指数は、1914年7月1日現在を基準値 100としている。
1921年の中頃における通貨の現実価値の低下は極めて甚だしく、紙幣はほとんど価値尺度および 計算単位としての機能を失っていた。 そのため、一部に貨幣制度を頽廃的と見る当時の風潮と相まって、貨幣経済はほとんど廃止されるばかりとなり、 「労働単位 трудовая единица (トレド тред)」 という安定的計算単位によって貨幣に置換えようとする企画さえ生まれた。 しかし、貨幣の必要性は極端に縮限されたとはいえ、完全に消滅はしなかった。 1920年11月に南ロシアの ヴランゲリ 将軍が クリミアから撤退 し、 3年に及ぶロシアの内戦はようやく終了した。 外国の軍事干渉や反革命勢力との闘争は測り知れない努力と犠牲を払って 結局はソヴェト政権が勝利したが、この3年間の戦乱のため国土は荒廃し、 国内経済はまさに崩壊の寸前であった。 内戦は農村から大量な労働力を奪い、そのため播種面積は半減し、 穀物収穫量は大戦前 1913年の 47%にまで激減しており、更に 1921年には 37%でしかなかった。 このため、この年にはロシア全土は凄まじい飢饉にみまわれ、500万人にのぼる死者を出している。 また、燃料や原材料の不足は多くの国営企業を閉鎖に陥れ、工業生産は急速に低下した。 このような国民経済全体に及ぶ生産の著しい減少とクロンシュタットの暴動などに顕われた 国民の動揺によって、ソヴェト政府は戦時共産主義の政策を大転換することを迫られた。 |
ロシアの産業・経済指数の推移
|
1913年 |
1921年 |
燃料指数 |
100 |
40.0 |
工業生産指数 |
100 |
21.0 |
農業生産指数 |
100 |
58.5 |
穀物粗収穫量 |
100 |
36.6 |
家畜頭数 |
100 |
68.0 |
播種面積 |
100 |
76.1 |
運搬発送貨物量 |
100 |
28.9 |
労働者数 |
100 |
46.3 |
賃金指数 |
100 |
35.4 |
国家予算 |
100 |
36.2 |
税収 |
100 |
30.7 |
上記指数は、クルジジャノフスキー 「ソウェート聨邦經濟十年史」 (露亞經濟調査叢書;南滿洲鐵道株式會社庶務部調査課編) 掲載数字より換算したものである。 |