2. 第一次大戦下の通貨事情
1914年7月20日 (8月2日)、ロシアはドイツに対し宣戦を布告した。このドイツとの開戦は、
外敵の侵入に対して祖国を防衛することで、期せずして国民を団結させ、
ロシアの国内は愛国的興奮に包まれた。
大戦勃発後直ちに政府は戦時緊急通貨対策を決定し、7月27日 (8月9日) には
資本の国外逃避を防止するため金兌換を停止するとともに、国立銀行に対して
国家信用券 (国立銀行券) の無準備発行限度額3億ルーブルに加え、更に 12億ルーブルを追加している。
これによって国立銀行は金準備を伴わずに15億ルーブルの信用券を無準備で発行できることになった。
また、国立銀行に短期国庫債券の割引を行うことを義務付け、金準備以上に発行される紙幣は、
国立銀行で割引く債券を保証として行われることになった。
国立銀行は次第に国庫の分局としての色彩が濃厚となってきたのである。
第一次大戦が勃発した 1914年7月以前のロシア帝政末期の通貨は主に
国家信用券 (国立銀行券) であり、それに付随して
金貨・銀貨・銅貨 などの金属貨幣が流通していた。
例えば、1914年1月1日現在の貨幣の流通状況は次のようになっていた。
金貨 |
4億9420万ルーブル |
20.6% |
高額面銀貨 |
1億2270万ルーブル |
5.1% |
低額面銀貨 |
1億 310万ルーブル |
4.3% |
銅貨 |
1810万ルーブル |
0.7% |
国家信用券 |
16億6470万ルーブル |
69.3% |
合 計 |
24億 280万ルーブル |
100.0% |
16億6470万ルーブルの国家信用券を保証する金準備は 16億9520万ルーブルであった (国内準備15億2780万ルーブル、在外正貨1億6740万ルーブル)。
これを、同じ時期における日本の状況と比較してみよう。
1913年12月末、日本国内には2億2400万円の正貨準備のもとで4億2600万円の日本銀行兌換券が流通しており、この兌換券を含めた貨幣の流通総額は6億円前後であった。
1ルーブルがほぼ1円3銭に相当していたことから、単純に比較した場合、この当時のロシアの貨幣流通規模は日本の約4倍であったと考えられる。
これに対してロシア帝国の人口は日本の約3倍であった。
国家信用券の金兌換が停止されると、大戦最初の年には既に金貨が流通面より姿を消し、
次いで高額面の銀貨が消失した。
1915年になると低額面銀貨や銅貨にまで不足を来たすようになったことから、
政府はこれらの代用として、
郵便切手小票 (9月22日布告) や
低額面の補助紙幣 (12月6日布告) を発行した。
しかし、それは金属貨幣の隠匿を更に助長し、1916年初めにはロシアの通貨はことごとく
種々の紙幣のみとなった。
更に、政府は緊迫する戦時財政を補うため国家信用券の増発を続け、そのため、
それらの紙幣の流通高は著しく増大している。
第一次大戦中の貨幣種別流通高の推移
1915年1月1日現在
高額面銀貨 |
1億4120万ルーブル |
4.4% |
低額面銀貨 |
1億1980万ルーブル |
3.7% |
銅貨 |
1890万ルーブル |
0.6% |
国家信用券 |
29億4660万ルーブル |
91.3% |
合 計 |
32億2650万ルーブル |
100.0% |
1916年1月1日現在
低額面銀貨 |
1億6180万ルーブル |
2.8% |
銅貨 |
2190万ルーブル |
0.4% |
国家信用券 |
56億1680万ルーブル |
96.0% |
郵便切手型小票 |
4870万ルーブル |
0.8% |
低額補助紙幣 |
260万ルーブル |
0.04% |
合 計 |
58億5180万ルーブル |
100.0% |
1917年1月1日現在
国家信用券 |
90億9740万ルーブル |
98.2% |
郵便切手型小票 |
1億 560万ルーブル |
1.1% |
低額補助紙幣 |
6050万ルーブル |
0.7% |
合 計 |
92億6350万ルーブル |
100.0% |
è
第一次大戦中における国家信用券の流通高と金準備
国家信用券の流通高が膨張したことから、その無準備発行限度額も更に漸次拡張されている。
無準備発行限度額の拡張
1897年8月29日 |
3億ルーブル |
1914年7月27日 |
15億ルーブル |
1915年3月17日 |
25億ルーブル |
1915年8月22日 |
35億ルーブル |
1916年8月29日 |
55億ルーブル |
1916年12月27日 |
65億ルーブル |
大戦勃発直前の 1914年7月1日現在における国家信用券の流通高は 16億3040万ルーブルであったが、
それを保証する金準備 17億4350万ルーブルのうち、国内には 15億9970万ルーブルが保有されており、
それ以外の1億4380万ルーブルは在外正貨として算定されていた。
在外正貨とは、外国の諸信用機関に保存され、対外決済やルーブル相場を維持すべき
種々の手段を実現するために利用される発行準備基金の一部であるが、この在外正貨の性格は、
1916年初頭より全く一変した。
ロシア政府は、イギリス政府との密約によって、実際には流通することのない
疑制的な金公債の提供を受け、それを在外正貨に算入し、紙幣発行の保証としたのである。
次の表は、大戦勃発から二月革命までのロシア国内の物価と紙幣流通高の推移を
指数で示したものであるが、この2年半の間に物価が3倍余り上昇しているのに対して、
紙幣の流通高は6倍を超えており、二月革命に至る帝政末期の段階では、通貨の膨張速度に比較して
物価騰貴の速度はまだかなり緩慢であったといえる。
ロシアの物価指数と紙幣流通高指数
年月 |
物価指数 |
紙幣流通高指数 |
1913年 |
100 |
|
1914年 |
101 |
(100) |
1915年 |
130 |
|
1916年 1月 |
143 |
347.7 |
2月 |
156 |
353.9 |
3月 |
157 |
366.2 |
4月 |
163 |
378.0 |
5月 |
171 |
386.6 |
6月 |
179 |
397.3 |
7月 |
195 |
413.1 |
8月 |
211 |
429.0 |
9月 |
217 |
444.6 |
10月 |
235 |
473.8 |
11月 |
257 |
504.8 |
12月 |
275 |
523.7 |
1917年 1月 |
294 |
568.2 |
2月 |
310 |
589.6 |
3月 |
315 |
616.0 |
物価指数は 1913年の物価を基準値100としており、また紙幣流通高指数は、
大戦直前の 1914年7月1日現在の紙幣流通高 16億3040万ルーブルを 100 として、
各月1日現在の流通高を指数換算したものである。
ドイツとの開戦によって、それまでドイツ風であったロシア帝国の首都サンクト・ペテルブルグの名称がスラヴ風にペトログラードと改められたことから、1914年夏に造幣局もペトログラード造幣局と
改称された。
そのため、翌 1915年の 20コペイカ以下の額面の補助貨幣から旧称を表すミントマーク "С.П.Б." が
除かれている。
年号の下に "С.П.Б." のミントマークのある貨幣 (左 : 1914年) とない貨幣 (右 : 1915年)
また、この時期にロシア政府は低額面銀貨の製造の一部を大阪造幣局に委託しているが、
これは日本との関係において極めて興味深い。
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大阪造幣局でのロシア貨幣の製造
自国ペトログラード造幣局で製造されたものと合わせると、大戦のさなかにも
膨大な数量の補助貨幣が製造されていた。
それにもかかわらず、流通面では深刻な補助貨幣の不足を来たしていたことは、
通貨価値の下落と金属素材の高騰のため、そのほとんどが流通市場に現れることなく
隠匿されてしまったためであろう。
弱体な軍事工業と、広大な国土に比べて相対的に貧弱な鉄道網を抱えていたロシアは、
ともかく挙国一致の態勢を整えて大戦に突入したが、総力戦は莫大な物資と兵員を消耗し、
1914年末には砲弾などの軍事物資の補給と兵員輸送は極めて困難な状態に立ち至った。
軍事物資と食糧の欠乏は前線の兵士に厭戦気分をはびこらせ、皇帝と政府に対する
国民の信頼感を動揺させ、また、膨大な動員は国民経済のあらゆる面より労働力を奪い、
ロシアの経済的解体は加速度的に進行した。
特に、農村の労働力不足は深刻であり、1916年の穀物の収穫量は戦前の四分の三にまで落ちている。
政府は1915年に日常用品の価格公定化を行い、1916年になると消費材配給の切符制度などを実施し、
1916年秋には穀物の強制買付、徴発も行われたが、これらの政策はもはや何らの成果も上げることなく、
国民の不満は極度に高まった。
1917年になると鉄道交通は麻痺状態に陥り、原料と燃料の不足から工場はほとんど生産を停止した。
そして、ペトログラードなどの大都市では食糧不足が一段と深刻になり、自発的な暴動が頻発し、
労働者の総罷業が激化して武装闘争に発展した。
もはや帝政政府にはこの混乱した事態を収拾することができなくなり、2月27日 (3月12日)、
遂に倒壊した (二月革命)。
これに代わって、首都における秩序の回復と行政運営のために、既に26日に休会の勅令が発せられていた
国会が臨時委員会を設置し、3月2日 (15日) にはリヴォフ公爵を首班とする臨時政府が成立した。
同日、君主制の存続を願うニコライ二世は弟のミハイル大公に譲位することで退位詔書に署名したが、
大公はその翌日即位を辞退し、ここに 300年余り続いたロシアのロマノフ王朝は終りを遂げたのである。
はじめに /
序.ロシアにおける金本位通貨制度の実施 /
1. 帝政ロシア末期の貨幣流通 /
2. 第一次大戦下の通貨事情 /
3. 臨時政府の通貨発行 /
4. 十月革命とソヴェト政府の通貨政策 /
5. 国内戦争と戦時共産主義の時代 /
6. 新経済政策と通貨制度の再建 /
全国的通貨 /
地域通貨
アルマヴィル貨幣の歴史的考察 /
非貨幣交換のための貨幣代用物 /
団結は力なり ― 消費組合の代用貨幣 /
ロシア革命史 (年表)
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