ロシア革命の貨幣史

 

 

4. 十月革命とソヴェト政府の通貨政策

 

В.И.Ленин (1881-1924) 1917年10月25日 (11月7日) 午前10時、ペトログラード労兵ソヴェト軍事革命委員会は、 臨時政府が打倒され国家権力は同委員会の手に移ったことを宣言した。 臨時政府の首班ケレンスキーはペトログラードから逃亡し、ほとんどの閣僚は逮捕された。 臨時政府のあった冬宮は赤衛軍部隊によって占拠され、首都はボリシェヴィキの完全な 支配下に置かれた。

ソヴェト政府は十月革命後直ちにペトログラードの国立銀行を占取した。 国立銀行は唯一の発券銀行であったから、その占取はソヴェト政府が国家の紙幣発行財源を掌握したことを意味する。 その年の 12月14日 (27日) には全ての私営商業銀行が国有化されて、国立銀行に統合され、 唯一のソヴェト共和国人民銀行となった。

1917年12月に レーニン は、貨幣流通の健全化と、私的蓄積貨幣に対する管理 (ブルジョアジーの手元にある貨幣資産の強制的使用停止) を実現するための処置を 提案しており、ソヴェト政府は翌 1918年1月から、貨幣制度再建のための幣制改革の 準備に着手し、紙幣発行を抑制して物価の高騰を阻止すべく努力した。 更に、1918年5月にレーニンは貨幣制度改革案を提起している。 これは、極めて短い期間を設定してその期間内に国民各人が自己の所有する貨幣の量を申告し、 その代わりとして新しい紙幣を受け取るようにする。 もしこの額が小量のものであれば、1ルーブル対1ルーブルの対価で受け取るが、 もしその額が標準を超過する場合にはその一部分のみを受け取ることを想定していた。

このような状況において、国立銀行がソヴェト政府の統制外にあった 1917年11月には 著しく増大した紙幣発行高も 1918年1月、2月には下降を続け、同時に物価騰貴速度は低下した。 しかし、間もなく始まった国内戦争と列強の軍事干渉はソヴェト国家の経済的復興を挫折させ、 レーニンによって提案された貨幣制度改革も実行することができなくなった。

 

十月革命後 (1917年11月−1918年12月) の紙幣発行高と物価水準の推移

年月

各種紙幣の総発行高
(単位:百万ルーブル)

対前月比較
物価水準(%)

各月1日の通貨量に対する
紙幣発行速度(%)

1917年11月  

5,717.6

151

29.0

12月  

2,355.2

134

 9.3

1918年1月  

1,913.3

129

 6.9

2月  

1,455.8

122

 4.9

3月  

2,956.3

131

 9.5

4月  

4,290.6

132

12.6

5月  

2,477.2

122

 6.5

6月  

2,968.5

125

 7.3

7月  

2,683.0

114

 6.1

8月  

2,279.1

 92

 4.9

9月  

2,851.5

100

 5.9

10月  

2,770.2

114

 5.4

11月  

3,074.9

125

 5.7

12月  

3,955.6

121

 6.9

 

国家の収入財源を徴税に頼ることもできず、また、内外の借款によって調達することも 不可能であったソヴェト政府にとって、国体を維持し国家を防衛するための財源としては、 新たな紙幣を印刷機によって造り出すことが唯一の方策であった。 そのため、1918年10月26日にソヴェト政府は人民銀行の無準備発行限度額を、従来の 165億ルーブルに 更に335億ルーブルを加え、500億ルーブルまで拡張した。 十月革命当時に旧国立銀行が保有していた金準備額は 12億6000万ルーブル (国立銀行の発表では 12億9200万ルーブル) であったが、1918年11月1日における 紙幣流通高は 538億ルーブルに達しており、この発行限度額に関する法規は空文に過ぎなかった。

国立銀行を占取したソヴェト政府は、12億6000万ルーブルあった金準備金を自己の管理に移したが、 その半分のカザンに保管されていた分は、後にチェコスロヴァキア軍団の反乱が発生した際に反革命軍に強奪されている。 残り半分の約6億ルーブルはモスクワに保管されていた。
 è  [参考文献] 2 の 18ページ
金準備金強奪の顛末については è  ロシアの黄金強奪事件 を参照されたい。

 

その後、1919年5月15日にソヴェト政府は銀行券の発行に関する一切の形式的制限を廃止しており、 国民経済が現実的に通貨を必要とする限度内において、すなわち無制限に、 紙幣を発行できるようになった。

帝政時代には通貨の膨張率が物価の上昇率を上回っていたが、二月革命後1か月目には 物価上昇率は通貨膨張率を凌ぐようになり、その後は紙幣が乱発されたにもかかわらず 物価の騰貴は更に激しくなり、相対的な通貨不足が生じ、国民の経済生活に重大な影響を 及ぼしはじめていた。 それは特に、ロシア中央部との正常な連絡を阻害されていた地方都市において深刻であった。 そのためソヴェト政府は 1918年1月9日に 国立銀行アルハンゲリスク支店 に対し、更には テレク・ソヴェト共和国 (同年10月1日) や トルケスタン・ソヴェト共和国 (同年11月3日) に対して地方紙幣を発行することを許可した。 それ以外の多くの地域や都市でも中央政府の許可とは関係なしに地域的な紙幣が発行されている。

また、この当時ソヴェト革命に対抗してロシア国内の各地に樹立された反革命政府では 独自の通貨制度を持っており、そこでは低額から大きな額面に至るまでの紙幣が揃っていた。 それらの反革命政府における大量な紙幣の発行は、列強によって保証されていたか、 あるいは国外で行われたものである。 例えば、北口シアの反革命政府 の発券に対しては イングランド銀行が総額75万ポンドの保証を与えており、連合国列強はオムスクの コルチャーク政府 の紙幣発行に補助金を与えていた。 また、ベルリンでは ウクライナ反革命政府 の 数種類の紙幣が印刷され、南ロシアの ヴランゲリ政府 の紙幣の一部はイギリスで印刷されたものである。 ソヴェト政府は、これらの地域を白衛軍や干渉軍から解放した後はその地方貨幣制度を廃棄し、 反革命政府発行の紙幣は何ら価値なきものとして破棄している。

ソヴェト政府は十月革命後も引続き 帝政時代の様式の国家信用券 (ロマノフ紙幣) や、臨時政府の 1917年様式国家信用券 (ドウマ紙幣)ケレンスキー紙幣、あるいは 低額補助紙幣 および 郵便切手代用小票 などの旧様式の紙幣を発行していたが、 物価が高騰する中での貨幣の欠乏に対処するため、1918年春には帝政時代および臨時政府が発行した 低額面の 自由公債券や短期国庫債券、国庫証券、利札 などを通貨として流通させている (1918年2月16日の人民委員会布告およぴ 1918年5月30日の財務人民部の布告)。

そして、新しい様式のソヴェト紙幣の図柄が用意されるまでの緊急処置として、 臨時政府時代に準備されていた国家信用券の旧い印刷原版を用い、年号を 1918年として 1、2、3、5、10、25、50、100、250、500 および 1,000ルーブルの額面で紙幣を印刷した (è 1918年様式国家信用券)。 そのため、これらの紙幣には 臨時政府の紋章 である 「無冠双頭の鷲」 と 1918年 の年号という、同時には存在しない組合せが見られる。 これらの紙幣の発行は暫時延期されていたが、紙幣発行高の制限が撤廃された1919年5月15日に発行された。 更に、深刻化する物価高騰のため従来の額面の紙幣では日常の取引に不便を生じるところから、 1919年末には 5,000 および 10,000ルーブル紙幣が加えられた (1919年11月21日付布告)。 この 1918年様式の紙幣から、その表面の署名が G.ピャタコフ に変っており、そのためこれらの紙幣は 「ピャタコフキ」 と呼ばれていた。

ロシア・ソヴェト共和国の国章 の付いた最初のソヴェト紙幣 としては、1919年3月に 1、2および3ルーブルの額面の小型紙幣 が発行されており、これをもって貨幣の図柄の上でもソヴェト共和国を象徴する国章が確立した (1919年2月4日の人民委員会布告)。 ちなみに、この国章は 1918年7月10日に採択された 「ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国憲法」 で制定されたものである。 また、ロシア語の正字法はこの頃改訂されており (1917年12月10日(23日) 新正字法を承認、 1918年10月10日実施)、紙幣上の字句にもその影響が現われている。 1919年末には 15、30および60ルーブル の3種類の 新しい様式の紙幣が現われ、それに続いて 1919年様式の 100、250、500、1,000、5,000、10,000ルーブル の6種類の紙幣が1920年3月に発行されている。 1919年様式の紙幣はソヴェト共和国の国家財産によってその発行が保証されたものであって、 紙幣には 「万国のプロレタリアよ、団結せよ」 の標語がロシア語のほか、英、独、仏、伊、華、アラビア語の 7か国語で印刷されており、新生ソヴェト国家の紙幣に相応しい形式を呈している。

これらの新しいソヴェト様式の紙幣には 「計算票」 という名称が付けられているが、 これは 「新生ソヴェト社会では、貨幣およびそれに関連する総ゆるものは存在すべきでない」 との、 当時の社会風潮にもとづいて導入されたものである。 この名称は 1922年様式の紙幣 からは 「貨幣票」 という 名称に変えられており、新経済政策 (ネップ) の下でソヴェト社会における通貨に対する見解が 変化したことを現わしている。 人民銀行は 1920年1月19日に廃止され、紙幣の発行は人民銀行から財務人民委員部 (財務省) に移っている。

1917−1921年の間の発行紙幣は漸次その額面額が引上けられた。 そして、これらのより高い額面紙幣の購買力 (価値) は絶えず低減していった。 また、1918年に予定されていた旧様式紙幣と新様式紙幣との引換が実施されなかったため、 国内戦争の間中、旧様式紙幣は全ソヴェト領土で支払効力を保持していたが、 貨幣価値の下落によって旧様式紙幣は事実上効力を失い、1921年までには ソヴェト紙幣の流通が確立された。

 


臨時政府の通貨発行      国内戦争と戦時共産主義の時代

 

はじめに / 序.ロシアにおける金本位通貨制度の実施 /
1. 帝政ロシア末期の貨幣流通 / 2. 第一次大戦下の通貨事情 /
3. 臨時政府の通貨発行 / 4. 十月革命とソヴェト政府の通貨政策 /
5. 国内戦争と戦時共産主義の時代 / 6. 新経済政策と通貨制度の再建 /
全国的通貨 / 地域通貨

アルマヴィル貨幣の歴史的考察 / 非貨幣交換のための貨幣代用物 /
団結は力なり ― 消費組合の代用貨幣 /

ロシア革命史 (年表)