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(ロシア革命の貨幣史) シベリア異聞 《解 説》 シベリア争乱 1918−20年
シベリア・極東地方におけるソヴェト権力の樹立 シベリアのボリシェヴィキは、1917年の秋には一連のソヴェトを掌握した。 ボリシェヴィキを支持したのは、主に労働者と兵士であった。 しかし、シベリアと極東は広大な農業地域で、工業企業はわずかしかなく、工業労働者はたかだか15万人 (住民の2%以下) ほどで、住民の圧倒的多数は農民とコサック (ザバイカル、アムール、ウスリーなどのコサック) であった。 膨大な未開墾地を控えるこの地域は地主的土地所有と無縁であり、農民は全体として他の地域より裕福で、富農の率も比較的高かった。 また、それ以外では、商業に従事する市民層も多く、「地方自治」 のスローガンを掲げる社会革命党 (エスエル) やメンシェヴィキの影響力が強かった。 一方、シベリア各地の守備隊には、約30万の兵士がいた。 トムスクには7万、オムスクには5万、クラスノヤルスクには4万、ヴラヂヴォストクには4万6000の兵士が駐屯していた。
西シベリアの行政・商業の中心都市 オムスク では、11月末に行われたオムスク・ソヴェトの改選でボリシェヴィキが勝利した。 12月2日に第三回西シベリア・ソヴェト大会が開かれ、西シベリア全域の権力のソヴェト移行が宣言され、ソヴェト権力の布告を実行するための州執行委員会が選出された。 トムスク の労働者兵士代表ソヴェトは、1917年10月25日にペトログラードでの武装蜂起の知らせを受け取ると、直ちに十月革命支持を表明し、臨時軍事革命委員会を設立した。 しかし、社会革命党 (エスエル) とメンシェビキが優勢であったトムスク市議会、ゼムストヴォ (地方自治組織)、農民代表ソヴェトなどはソヴェト権力の承認を拒否し、「全シベリア臨時大会」 を開催して、反革命的な 「シベリア地方議会 Сибирская областная дума 」 を設立した。 これに対して臨時軍事革命委員会は、12月の初めに 「シベリア地方議会」 を解散して、メンバーの大多数を逮捕し、トムスク市を制圧した。 エニセイ県の中心地 クラスノヤルスク では、10月28日にソヴェト兵士部が軍事司令部を設けた。 赤衛兵たちは市の最重要地点を占領して、クラスノヤルスクの権力を掌握した。 武力で抵抗する力をもっていなかった反革命に対して、武装兵力をもつクラスノヤルスクのボリシェヴィキは、1917年末にはエニセイ県全域にわたってソヴェト権力を確立し、さらには近隣諸県のソヴェト権力樹立を支援した。 東シベリアの行政・商業・文化の中心都市 イルクーツク では、10月16日から24日まで第一回全シベリア・ソヴェト大会が開かれ、ボリシェヴィキが優勢なうちに、ソヴェトによる権力掌握闘争のための全シベリア的な指導組織である 「シベリア・ソヴェト中央執行委員会 (ツェントロシビーリ)」 が設けられた。 しかし、イルクーツクには軍管区司令部や陸軍士官学校、少尉補学校があり、コサック部隊がいた。 また、ここでは社会革命党 (エスエル) が強い影響力をもっており、ボリシェヴィキ組織は弱小であったが、大衆の中でのボリシェヴィキの影響力は急速に増大し、11月末にイルクーツク・ソヴェトが改選されると、ボリシェヴィキとそれに同調するエスエル左派がソヴェト内で多数を占めるようになった。 12月の初めには赤衛兵部隊と反革命勢力との間で激しい武装闘争が展開され、12月17日に士官学校生徒とコサックは武装解除されてボリシェヴィキ側が勝利した。 1918年2月16日、第二回全シベリア・ソヴェト大会が開かれ、「シベリア・ソヴェト中央執行委員会 (ツェントロシビーリ)」 が選出され、シベリア人民委員会議が設けられた。 ザバイカル州 では、ザバイカル・コサックの一等大尉 G.M.セミョーノフ Григолий Михайлович Семёнов, 1890-1946 が1917年夏以降、反革命勢力の結集を進めていたが、1918年2月にはソヴェト権力が樹立された。 アムール州の州都 ブラゴヴェシチェンスク では、憲法制定会議議員でもあった市長の A.N.アレクセーエフスキー Александр Николаевич Алексеевский, 1878‐1957 がペトログラードで開かれた憲法制定会議へ出席していてブラゴヴェシチェンスクを離れていたとき、1918年2月25日に第四回アムール州農民代表者大会が開催され、そこで、アムール州の権力のソヴェトへの移行と、アムール州自治庁とブラゴヴェシチェンスク市議会の解散が宣言され、労農兵士ソヴェト議長にボリシェヴィキの F.N.ムーヒン Федор Никанорович Мухин, 1878-1919 が選出された。 3月6日、アムール・コサックが反ソヴェトクーデター (ガーモフの反乱) を起こしたが、14日には近隣の赤衛軍部隊の支援を得てソヴェトが権力を回復した。 ブラゴヴェシチェンスク市長のアレクセーエフスキーは、憲法制定会議が解散 (1918.1.6(19)) されるとブラゴヴェシチェンスクへ戻ってきたが、クーデターを支持した容疑でムーヒンの政権に逮捕・投獄された。 沿海州の ヴラヂヴォストク では、かなり早くにソヴェト権力が樹立されていたが、ソヴェト内では協調主義者が多数を占めていた。 1917年10月26日に十月革命の報が伝わると、ボリシェヴィキの呼びかけで、ペトログラードにおける蜂起の勝利を祝うための労働者・兵士・水兵の武装デモンストレーションが始まり、ソヴェト総会の行われていた会場へ押しかけて、ソヴェト執行委員会の占拠が行われた結果、ソヴェトはボリシェヴィキに制せられた。 数日後、ヴラヂヴォストク・ソヴェトは、市の権力掌握を宣言した。 ヴラヂヴォストクに続いて ハバロフスク で、ソヴェト権力が樹立された。 12月の初めに行われたソヴェトの占拠でボリシェヴィキは完全な勝利を得た後、12月12日〜16日に、ハバロフスクで第三回極東地方ソヴェト大会が開かれた。 大会では、極東における全権力をソヴェトに委ねることが決定され、ボリシェヴィキの A.M.クラスノシチョコフ Александр Михайлович Краснощёков, 1880-1937 (後の極東共和国の首班) を議長とする極東地方ソヴェト執行委員会が選出された。
1918年5月25日に勃発した チェコスロヴァキア軍団 の反乱はウラルやシベリアでの全面的な内戦開始の合図となり、シベリア鉄道沿線の諸都市はたちまちチェコスロヴァキア軍団の部隊によって占領された。 5月27日から28日には、オムスクとイルクーツク、29日にペンザ、31日にトムスク、6月8日にはサマラなどがチェコスロヴァキア軍部隊の占領下に置かれ、それに呼応した反革命白衛勢力は各地で反ボリシェヴィキ政権を樹立した。 è チェコ軍がシベリアに殺到、各地擾乱 (大正7年(1918年)6月7日 「時事新報 (夕刊)」
また、チェコスロヴァキア軍団による反ボリシェヴィキの反乱は、ロシアへの軍事干渉をねらっていた連合国に対して絶好の口実を与えることになった。 日本を含む連合国 (英・米・仏・日・伊・中など) は、「チェコスロヴァキア軍団の救援」 を名目として直ちに干渉行動に着手した。
シベリア・極東地方における反ボリシェヴィキの諸政権 è シベリア・極東地方における反ボリシェヴィキの諸政権 (イメージ図) 臨時シベリア政府 Временное Сибирское правительство シベリアに残留したメンバーは、ノヴォニコラエフスクが5月26日にチェコスロヴァキア軍団の部隊によって占領されると、ノヴォニコラエフスクで 「西シベリア代表部 Западносибирский Комиссариат」 を組織したが、6月7日には西シベリア代表部はオムスクへ移った。 6月23日、トムスクで 「シベリア地方議会」 が開かれ、第二回帝国議会代議員であったP.V.ヴォロゴツキー Пётр Васильевич Вологодский, 1863-1928 を首班として新たに 「臨時シベリア政府 (第二次)」 が設立された。 ヴォロゴツキーの臨時シベリア政府は、オムスクへ移った。 オムスクでは、シベリア地方議会議長のヤクーシェフ Иван Александрович Якушев, 1884-1935 の調停で、移動してきた2派が6月30日に合流し、P.V.ヴォロゴツキーを首班として新しい政府が組織された。 コムチ (憲法制定会議議員委員会) Комуч (Комитет Членов Учредительного собрания) コムチは 「民主主義的自由の回復」 を宣言し、赤色の国旗 (紋章の全くない無地の赤旗はエスエルが使用した) を採用し、8時間労働制を制定し、集会・会議活動を許可した。 それと共に、ソヴェト政権の布告を廃止し、国有化された工業企業を旧所有者へ還付し、銀行の国有化を廃止し、市議会やゼムストヴォ (地方自治組織) を復活し、個人商業の自由を許可した。 全ロシア臨時政府 (ウファ執政府) Временное Всероссийское правительство (Уфимская директория) 会議には、サマラの 「憲法制定会議議員委員会 (コムチ)」、オムスクの 「臨時シベリア政府」、エカテリングルグの 「ウラル臨時政府 (1918年8月13日成立)」、各地のコサック政権、「トルケスタン自治政府」 などの民族政権、社会革命党 (エスエル)、メンシェヴィキ、立憲民主党 (カデット)、「ロシア復興同盟」、シベリア地方議会など、様々な性格をもつ団体の代表者が参加した。 9月23日に会議は 「全ロシア臨時政府」 の設立を宣言した。 この全ロシア臨時政府では、N.D.アヴクセンチエフを議長とし、P.V.ヴォロゴツキー (臨時シベリア政府の首班) など5人の執政官による合議制が採用された (ウファ執政府)。 全ロシア臨時政府は、10月9日にオムスクに移った。 オムスクは、オミ河を挟んでイルティシュ河の右岸にあり、当時人口135,800 のシベリア最大の都市であった。 11月3日、オムスクの臨時シベリア政府は、後から移ってきた全ロシア臨時政府へ権力を移譲し、P.V.ヴォロゴツキーを首相とする新しい 「全ロシア臨時政府」 が発足した。 一方、サマラのコムチは 「全ロシア」 の政権であることの自負を放棄し、「憲法制定会議議員大会 Съезд членов учредительного собрания」 と改称した。 ザバイカル臨時政府 Временное Забайкальское Правительство G.M.セミョーノフ統制下のヴェルフネウヂンスクは、1920年3月に赤軍とパルチザン部隊によって解放され、その地にA.M.クラスノシチョコフを首班とする 「沿バイカル臨時政府 Временная земская власть Прибайкалья」 が成立することになる。 アムール臨時政府 Временное Амурское Правительство ヴラヂヴォストクの諸政府 この時期、ヴラヂヴォストクには、フランスへ移送されるはずの15,000人のチェコスロヴァキア軍部隊が、海上輸送の準備がととのわないために滞留を余儀なくされていた。 6月29日、このチェコスロヴァキア軍部隊が、ヴラヂヴォストクに停泊していた日本およびイギリスの軍艦の海軍陸戦隊の支援を得て、同地の過激派を急襲し、労兵本部、電信局、国立銀行、自治会、市庁などを占拠、同地の過激派を一掃するという事件が勃発した。 ヴラヂヴォストクに集積されている軍需物資が同地の過激派によって西方に輸送されることを阻止するためであったといわれている。 ヴラヂヴォストクがチェコスロヴァキア軍団によって占領されると、デルベルの一派はその地に 自治シベリア臨時政府 Временное правительство автономной Сибири の樹立を宣言した。 デルベルの政府は、地方行政機関として市会および州自治庁を存続することにしたが、政府の 「閣員」 はトムスク以来の同志によって占められており、ヴラヂヴォストクの商工会議所や社会革命党以外の前議員は政府の不承認を決議した。 ヴラヂヴォストクの日本海軍官憲 (第五戦隊司令官の加藤寛治少将)は、日本の 「傀儡政策」 の対象として、この事件の前からデルベルの新政権樹立活動に注目しており、陸軍当局のホルヴァート擁立運動に対抗して、積極的にデルベル支持を推進していた 日本、イギリス、アメリカ、中国の4か国がヴラヂヴォストクへ派遣している警備軍艦およびチェコスロヴァキア軍事当局は、7月6日に 「布告を発し、爾後浦塩を連合国の臨時共同防衛の下に置く旨を宣言」 した。 「浦塩市の行政権は州自治会に一任し」、また、連合国はヴラヂヴォストクにおける 「一般的な政府の存在は認めず、州庁と市会を官憲としてこれと交渉する」 ことになった。 デルベルの政府は、事実上いかなる権力も所有していなかったのである。 1918年9月21日、P.V.ヴォロゴツキー (臨時シベリア政府の首班) は、デルベルに権力を放棄し、臨時シベリア政府の権力を認めてデルベルの政府を解散することを余儀なくさせた。 また、デルベルの自治シベリア臨時政府樹立に刺激されたハルビンのD.L.ホルヴァート Дмитрий Леонидович Хорват, 1858-1937 (東支鉄道長官) は、7月9日に 極東政府 樹立を宣言し、8月3日に彼の閣僚と共にヴラヂヴォストクへ乗り込んできて、4日に 「ロシア臨時最高統治者 Временный Верховный правитель России」 を宣言した。 8月23日、ヴラヂヴォストクの政権を奪取しようとしたホルヴァートは連合国の反感を買い、彼の計画は挫折した。
コルチャーク提督の軍事独裁政権 オムスク政府 (コルチャーク政府) Омское правительство (правительство Колчака) 「統一と不可分のロシア」 を目指す全ロシア臨時政府は、全ての地方政権、民族政権、コサック政権、シベリア地方議会の廃止に努めた。 シベリアや極東各地の反革命・反ボリシェヴィキの諸政権は、漸次これに合併し、全ロシア臨時政府は統一シベリアの支配権を確立した。 しかし、様々な勢力の寄せ集めであった全ロシア臨時政府の政権基盤は弱く、中にはソヴェト政府に同調する社会主義者もおり、内部対立を続けていた。 17日に右翼軍人がクーデターを起し、旧ウファ執政府のN.D.アヴクセンチエフらを逮捕追放した。 11月18日、A.V.コルチャーク提督がイギリス軍の支持を得て政権を掌握し、ロシア陸海軍最高司令官を兼ねた最高執政官として軍事独裁政権を樹立した。 è 「オムスク政権最高執政官にコルチャーク」 (1918 (大正7).11.21 「時事新報 (夕刊)」) A.V.コルチャークの 「全ロシア臨時政府 (オムスク政府)」 に対して、英・仏・米・日などの列強各国は 「露国復興の中心」 として支持し、将兵の派遣、武器や軍事費の提供など、膨大な軍事援助を行った。 連合国の中で最大の兵力を派兵していた日本は、シベリアへの派兵以来 D. L. ホルヴァート Дмитрий Леонидович Хорват, 1858-1937 や G.M.セミョーノフ の擁立政策をとってきたが、1919年 (大正8年) 5月、各国に先駆けてオムスク政府に仮承認を与える方針を決定し、加藤恒忠を特命全権大使に任命し、オムスクに派遣した。 è 「連合国、オムスク政府の協同承認を採択」 (1919 (大正8).05.28 「東京日日新聞」) è 「四都市に領事館を開設」 (1919 (大正8).06.05 「中外商業新報」) è 「オムスク特命全権大使に加藤恒忠」 (1919 (大正8).08.13 「東京朝日新聞」)
コルチャーク敗退 ソヴェト政府の最大の脅威となったオムスク政府軍 (コルチャーク軍) はウラルに前線を置き、1919年春に中央ロシアへの進撃を開始した。 オムスク政府軍は3月14日にウファを占領し、南ロシアからモスクワを目指して北上する デニキン 軍や、ロシア北西部の ユデニチ 軍と呼応して、一時期はヴォルガ河の西方まで進攻したが、赤軍第五軍などによる1919年5月25日〜6月19日のウファ進撃で大敗を喫した。 かって 「約8万」 (12〜13万とも) と称していたオムスク政府軍は東進する赤軍の前に敗退を続けた。 オムスク地方に滞在せる聯合軍は一向戦争に参加する風見えず チェック軍又前日の緊張したる態度を失いガイダ将軍が露軍に籍を移さざるに至りし真意等は必ずしも西伯利軍に有利なる形勢というべからず (大阪毎日新聞 1919 (大正8).2.1) オムスク政府軍を追撃してきた赤軍は、1919年10月20日、イシム河の左側背を突破し、オムスク西方約300キロに迫った。 オムスク政府の諸官庁はイルクーツクへの移転を開始した。 オムスクには最高執政官コルチャーク提督と閣僚、軍幹部が残留したが、11月12日にはコルチャークと閣僚たちもオムスクを捨てた。 14日、オムスクは赤軍に北方から包囲され、同日陥落した。 è 「オムスクの日本人引き揚げ」 (1919 (大正8).11.12 「時事新報 (夕刊)」) è 「加藤大使、オムスク引き揚げ」 (1919 (大正8).11.17 「東京日日新聞」) è 「オムスクついに陥落」 (1919 (大正8).11.21 「東京日日新聞」) ザバイカル州のチタには日本軍の支援を受けたセミョーノフ軍が健在であったが、オムスクのA.V.コルチャークとチタの G.M.セミョーノフ とは対立関係にあり、両者の間には修復し難い深い溝があった。 この当時、日本陸軍の参謀本部では、東進する 「欧露過激派軍」 の兵力が 「二十万乃至三十万」 に対して、動員できる 「反過激派露軍」 はセミョーノフ軍約16,000 を中心にして、約28,000 と見ていた。 (「西伯利作戦要領」1919(大正8).8.7) オムスク政府の新しい首都となったイルクーツクは、不穏な情勢にあった。 イルクーツクは、アンガラ河に沿う東シベリアの中心都市で、当時129,700の人口を有し、オムスク (人口135,800) に次ぐシベリア第2の都会であった (当時、オムスク、イルクーツク、トムスク (人口116,664) の3市は、シベリアの3大都市といわれていた)。 イルクーツクには、コルチャークの本隊より一足先に到着していたオムスク政府の閣僚のほか、連合国代表団や各国の派遣軍が駐在していたが、赤軍接近の噂で動揺していた。 1919年12月には、社会革命党 (エスエル) やメンシェヴィキ、ゼムストヴォ (地方自治組織)、市議会など数十の政党団体代表者によって結成された 政治センター Политический центр が反コルチャークで蜂起し、市の北部を占領した。 1920年1月4日、最高執政官と首相が不在のコルチャーク政府は崩壊し、イルクーツク市の実権は反コルチャーク派の手に帰した。 è 「イルクーツク陥落、社会革命党軍に実権」 (1920 (大正9).01.08 「大阪毎日新聞」) è 「コルチャーク、既に実権を失う」 (1920 (大正9).01.12 「東京日日新聞」) 1月15日、A.V.コルチャークの列車は反コルチャーク勢力に支配されてるイルクーツク駅に到着した。 このとき、イルクーツクには日本軍派遣隊 (第五師団第十一連隊のイルクーツク派遣隊約1個大隊) が殿(しんがり) として残っていたが、連合国代表団や各国の派遣部隊はすでにイルクーツクを引き揚げていた。 チェコスロヴァキア軍の無事撤退を第一目的とするジャナン将軍 Maurice Janin, 1862-1946 (バイカル湖以西連合軍指揮官でありチェコスロヴァキア軍統督の責任を持つフランス派遣部隊の司令官) の命令により、コルチャーク提督とオムスク政府首相のV.N.ペペリャーエフ Виктор Николаевич Пепеляев, 1884-1920 の身柄が、コルチャークを警護してきたチェコスロヴァキア部隊からイルクーツクの政治センターに引き渡され、それからボリシェヴィキの軍事革命委員会の手に移された。 コルチャークとペペリャーエフは刑務所に収監された。 コルチャーク軍の残党に提督の身柄が奪還されることを恐れた軍事革命委員会は、2月7日未明、A.V.コルチャークとV.N.ペペリャーエフを銃殺した。 殿を務めた日本軍派遣隊は、1月19日にイルクーツクを撤収している。 è 「コルチャーク、既に実権を失う」 (1920 (大正9).01.12 「東京日日新聞」) è 「イルクーツクの日本軍、全部引き揚げ」 (1920 (大正9).01.22 「東京朝日新聞」) è 「コルチャーク提督の死刑執行」 (1920 (大正9).02.17 「大阪毎日新聞 (夕刊)」)
シベリア・極東地方のその後 ...
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