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(ロシア革命の貨幣史) シベリア異聞 《解 説》 チェコスロヴァキア軍団事件
ロシアにおけるチェコスロヴァキア軍団 Československé legie v Rusku, Чехословацкие легионы в России
1620年11月8日にプラハ近郊のビーラー・ホラの戦いでチェコの非カトリック派貴族がハプスブルグ家に敗れて以来、チェコは300年の間独立を失っていた。
また、スロヴァキアの地は、西スラヴ人の国家 「大モラヴィア」 が10世紀初めにマジャール人によって滅ぼされたときから、ハンガリー王国の支配下に置かれていた。
チェコとスロヴァキアからは多くの兵士が動員されて、ロシア軍との戦闘を強いられていたが、こうした中、意識的に投降し、積極的にロシア軍に協力して祖国独立のためにドイツやオーストリア・ハンガリー帝国と戦うことを希望するチェコ人やスロヴァキア人の俘虜たちの集団が現れた。 彼らはロシア帝国の支援を受けて、大戦以前からロシアに居住しロシア軍に属して戦っていたチェコ人志願兵とともに義勇団 Чешская дружина, Česká družina を組織し、南西方面 (ガリツィア戦線) に配置されたロシア第三軍隷下の一隊として、オーストリア・ハンガリー軍と対峙していた。
チェコ義勇団は、第一次大戦が始まって間もない 1914年8月12日にキエフで誕生 した。
この年の12月にはチェコ義勇団の部隊はスロヴァキア人16人を含む992人の兵士とロシア人の指揮官とで構成されていた。 そして、オーストリア・ハンガリー軍から投降してきた俘虜たちが義勇団に参加してきた。 二月革命後も、チェコ人とスロヴァキア人たちの部隊は臨時政府のもとでさらに拡充され、ケレンスキー政権下では2個師団約3万人、十月革命後の1918年1月には5万人からなる軍団 (チェコスロヴァキア軍団 Чехословацкие легионы, Československé legie) に成長した。 しかし、ソヴェト政権は1918年3月にドイツとブレスト・リトヴスクで単独講和条約を結び戦線を離脱してしまった。 チェコ人たちは当初の目的を果たすことなくロシア国内に取り残されてしまったのである。 そこでフランスは、パリにあったチェコスロヴァキア国民評議会 Československá národní rada, fr. Conseil National Tchécoslovaque (1916年2月13日にパリで樹立されたチェコスロヴァキア臨時政府) との間で締結していた 「チェコスロヴァキア国民軍 (チェコスロヴァキア軍団) をフランス軍に配属して西部戦線に転用する」 という協定に基づいて、直ちに10数名の武官をチェコスロヴァキア軍団に派遣し、軍団は実質的にフランスの指揮下に置かれることになった。 フランスは、チェコスロヴァキア軍団をシベリア鉄道で東へ回送し、ロシア極東のヴラヂヴォストクから日本・アメリカを経由して西部戦線に移送することを画策した。 そして、ソヴェト政府はチェコスロヴァキア軍団の即時ヴラヂヴォストクへの進行と反革命分子の攻撃に備えて一定量の武器 (1列車につき 168挺のライフルと1台の機関銃) を携帯することを許容する協定をチェコスロヴァキア国民評議会代表との間で結んだ (ペンザ協定、1918.3.26)。
チェコスロヴァキア軍団は、ペンザに集結して移送列車ごとに部隊 (梯団) を編成し、ヴラヂヴォストクを目指した。 輸送は1918年5月末までに完了する予定であった。 先頭部隊は4月25日にヴラヂヴォストクに到着したが、シベリア鉄道自体の輸送能力の問題などから後続部隊は遅れ、ペンザからイルクーツクまでの各駅に立ち往生していた。 チェコスロヴァキア軍団の武装列車
マサリクの日本訪問 この頃、ロシアに滞在していたチェコスロヴァキア国民評議会の指導者 T.G.マサリク (トマーシュ・ガルリグ・マサリク Tomáš Garrigue Masaryk, 1850-1937、後に新生 チェコスロヴァキア共和国 の初代大統領に就任) は、軍団兵士を輸送するための船舶確保のためにアメリカ合衆国へ渡る途中の1918年4月6日に日本 (下関) に入国し、8日に東京に移っている。 東京滞在中に、彼は英・米・仏など連合国の大使館と接触したり、日本政府に対して軍団支援などを要請している。 4月14日には東京朝日新聞の取材を受け、翌15日に 「墺國を遁れた亡命のマ博士 突如東京に入る」 という記事が東京朝日新聞紙上に掲載された。 4月20日に横浜港からバンクーバーに向けて出港している。 è 「墺國を遁れた亡命のマ博士 昨日突如東京に入る」 (大正7年(1918年)4月15日 「東京朝日新聞」)
チェリャビンスク事件とシベリア出兵 このような状況下、5月14日に軍団の一部隊は、シベリア鉄道沿線のチェリャビンスクですれちがったドイツ・オーストリア軍の俘虜部隊 (彼らとは遺恨の間柄であった) との間で小競り合いを起こした。 チェコスロヴァキア軍団が反革命勢力と結託することを警戒していたソヴェト権力は軍団の武装解除を要求したが、チェリャビンスクの部隊はそれを拒絶し、5月25日、ソヴェト権力に対して武力蜂起した。 これが両者の全面的な対立に発展したが、訓練と戦場体験を積んでいたチェコスロヴァキア軍団はシベリア鉄道に沿ってペンザ、サマラ、オムスクからイルクーツクに至る諸都市をたちまち占領し (5月26日にチェリャビンスク、27日から28日にはオムスクとイルクーツク、29日にペンザ、31日にトムスク、6月8日にはサマラなど)、それに呼応した反革命勢力は各地で政権を樹立した。 è 「チェコ軍がシベリアに殺到、各地擾乱」 (大正7年(1918年)6月7日 「時事新報 (夕刊)」) チェコスロヴァキア軍団の部隊がチェリャビンスクで起こした騒動に対する不用意な収拾処置についてV.I.レーニンは、『コルチャックにたいする勝利にさいして労働者と農民におくる手紙』(1919年8月24日) の中で、次のように自戒している。 「コルチャック支配がチェコスロヴァキア軍団にたいするちょっとした軽率さから、個々の連隊の小さな不服従からはじまったことを、忘れるのは犯罪行為である。」 (レーニン全集第29巻、375ページ、大月書店) このチェコスロヴァキア軍団の反乱は、東部戦線が再び構築されてドイツ軍の力が二分されることを望んでいた連合国側に歓迎された。 ソヴェト政権下のロシアへの干渉をねらっていた連合国は、「チェコスロヴァキア軍団の救援」 を口実として、直ちに干渉行動に着手した。 日本を含む連合国 (英・米・仏・日・伊・中など) によるシベリア出兵は、こうして始まったのである。
チェコスロヴァキア軍部隊のヴラヂヴォストク制圧 1918(大正7)年8月2日に日本政府の出兵宣言が出され、翌3日にはアメリカ合衆国政府の出兵宣言公表の手続きがとられて、ここに日米両陸軍による 「共同出兵」 が開始されることになった。 この本格的なシベリア出兵が開始される前の6月29日、沿海州のヴラヂヴォストクで、チェコスロヴァキア軍部隊が同地の過激派を急襲し、労兵本部、電信局、国立銀行、自治会、市庁などを占拠する事件が勃発した。 ヴラヂヴォストクに到着したチェコスロヴァキア軍部隊 この時期、ヴラヂヴォストクには、フランスへ移送されるはずの15,000人のチェコスロヴァキア軍部隊が、海上輸送の準備がととのわないために滞留を余儀なくされていた。 それ以外の部隊はペンザからイルクーツクに至るまでのシベリア鉄道沿線に分散・停留していた。 ヴラヂヴォストクのチェコスロヴァキア軍部隊の指揮官M.ヂテリフス少将 (Михаил Константинович Дитерихс、1874-1937) は、西方の友軍を援護・合流しようと、ヴラヂヴォストクの領事団に武器提供・兵力支援を要請していた。 ヴラヂヴォストクに集積されている軍需物資を過激派が西方に輸送するとの情報を得た彼は、軍需物資の西送を阻止するため、ヴラヂヴォストク停泊中の日本およびイギリスの海軍陸戦隊の支援を得て、市街戦の結果ヴラヂヴォストクを制圧し、同地の過激派を一掃した。 è ウラジオのチェコ軍一万五千 (大正7年(1918年)6月7日 「東京日日新聞」) è チェコ軍がウラジオ制圧 (大正7年(1918年)7月2日 「大阪毎日新聞」) è チェコ軍謝礼使が来日 (大正7年(1918年)7月21日 「東京日日新聞」) チェコスロヴァキア軍団は、沿海州から西進する部隊と西部シベリアから東進する部隊が1918年8月末〜9月初旬にオノン河畔 (ザバイカル州) で連絡した。 これによって、(「ウラディヴォストークから西進するチェク軍の背面と交通線とを掩護する」 という) 日本および列強のシベリア出兵の目的は一段落したことになる。 チェコ共和国大使館の広報サイトにある 「チェコ・日 政治関係史(過去と現在)」 によれば、1918年9月、日本政府は、チェコスロヴァキア国民評議会がチェコスロヴァキア軍団に対し統治権を持っていることを承認し、同年11月には、東京にチェコスロヴァキア軍団の代表部が開設された、とある。 (日本とチェコスロヴァキア共和国の正式な外交関係は1920年1月12日に開設。)
シベリア迷走 連合国、殊にイギリスは 「干渉目的に軍団を使うこと」 を強く望んでいた。 また、十分な装備と訓練を受け、重要な交通路を占領しているチェコスロヴァキア軍団は、反革命側にとって、当初はシベリア回復の救済軍として、頼もしい存在であった。 しかし、祖国 チェコスロヴァキア共和国 の建国 (1918年10月28日) が達成されると、軍団兵士たちは強い望郷の念に駆られるようになり、その戦意は低下した。 また、軍事独裁体制 (1918年11月18日に A.V.コルチャーク がクーデターにより最高執政官に就任) のオムスク政府 (全ロシア臨時政府) やシベリア・極東の各地で圧政・暴虐の限りをつくしている反革命勢力に対してチェコ人やスロヴァキア人たちは強い反感を抱くようになってきた。 1919年の2月には3つ目の師団が編成されたが、 3月頃になるとウラル方面にあったチェコスロヴァキア軍は全てシベリア内地に深く退却し、オムスクよりイルクーツク間の鉄道線路に配置されるようになった。 連合国列強の支援のもとに、一時期はヴォルガ河の西方まで進攻したオムスク政府軍 (コルチャーク軍) は、1919年の夏、赤軍の総反撃によって敗退し、秋にはオムスク政府の各官庁はイルクーツクへの移転を開始し、11月12日には最高執政官 コルチャーク提督 と閣僚たちもオムスクを捨てた (11月14日オムスク陥落)。 赤軍の追撃から逃れるコルチャーク一行の列車の運行は混雑し、しばしば予告なしの停車を繰り返した。 沿線各地ではコルチャークに不満を持つ地方勢力が蜂起した。 バイカル湖以西連合軍指揮官でありチェコスロヴァキア軍統督の責任を持つフランス派遣部隊の司令官M.ジャナン (Maurice Janin, 1862-1946) 将軍は、チェコスロヴァキア軍部隊に対して、コルチャーク提督を警護するよう命じた。 コルチャークの列車とロシアの金準備などの財貨・貴金属を載せた軍用列車はチェコスロヴァキア軍部隊の保護下に拘束された。
第一次大戦末期の1918年初頭、ソヴェト政府は、ドイツ軍進攻の危機が迫ったため、30,563プード (約500トン) の黄金を含むロシアの金準備 (外貨支払い準備) をカザンに退避させていた。
1918年5月にチェコスロヴァキア軍団の反乱が勃発し、ヴォルガ中流域、ウラルおよびシベリアの鉄道沿線に分散していた軍団の部隊が各地の反革命勢力と手を結び、鉄道沿線の主要都市を次々に占拠していった。
1918年8月にカザンが白衛軍とチェコスロヴァキア軍の混成部隊によって占領され、このとき同地の国立銀行の金庫に保管されていた金・銀・プラチナ・有価証券などから成るロシア国家の金準備が略奪されている。
反革命勢力の手中に陥ちた金準備は、コムチ (憲法制定議会議員委員会) が支配していたサマラへ向けて搬送され、さらにウファへ、そして10月には反革命の中心都市オムスクへ移送された。 1920年1月15日、コルチャーク一行の列車がイルクーツク駅に到着した。 このとき、イルクーツクには日本軍第五師団第十一連隊のイルクーツク派遣隊約1個大隊が殿(しんがり) として残っていたが、連合国代表団や各国の派遣部隊はすでにイルクーツクを引き揚げており、イルクーツクは反コルチャーク勢力に支配されていた。 チェコスロヴァキア軍の無事撤退を第一目的とするジャナン将軍の命令により、コルチャーク提督とオムスク政府首相のV.N.ペペリャーエフ (1884-1920) の身柄が、コルチャークを警護してきたチェコスロヴァキア軍部隊からイルクーツクの反コルチャーク勢力 「政治センター」 に引き渡され、さらにボリシェヴィキの軍事革命委員会の手に移された。 コルチャークとペペリャーエフは刑務所に収監されたが、コルチャーク軍の残党に提督の身柄が奪還されることを恐れた軍事革命委員会は、2月7日未明、コルチャーク提督とペペリャーエフ首相を銃殺した。 殿を務めた日本軍派遣隊は、1月19日にイルクーツクを撤収している。 è 「イルクーツクの日本軍、全部引き揚げ」 (大正9年(1920年)1月22日 「東京朝日新聞」) è 「コルチャーク提督の死刑執行」 (大正9年(1920年)2月17日 「大阪毎日新聞 (夕刊)」)
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赤軍との撤退交渉 (クイトゥン合意) 1920年1月、コルチャーク軍の崩壊によって、東方への撤退を模索するチェコスロヴァキア軍団は、クラスノヤルスクにおいて、赤軍に対して休戦交渉を働きかけた。 1月11日、シベリア革命委員会と赤軍第五軍は、チェコスロヴァキア軍団司令部に対して降伏を勧告し、チェコスロヴァキア軍部隊によって警護されているコルチャークの身柄と ロシアの金準備 などの財貨の引き渡しを要求した。 その見返りとして、チェコスロヴァキア軍団の祖国帰還については不可侵および協力を保証した。 しかし、このときは、チェコスロヴァキア軍団司令部はこの提案を拒否し、交渉は中断した。 そして、武器は引渡さないこと、鉄道、道路の破壊、軍用列車の焼却、鉄道への列車によるバリケードの構築の命令を出した。 1月21日、赤軍司令部はチェコスロヴァキア部隊の武装解除についての要求を徹回し、休戦交渉の再開を提案した。 しかし、(カッペリ指揮下のコルチャーク軍の残党がイルクーツクへ快進撃しているとの情報を受け取った) チェコスロヴァキア軍団は交渉再開を拒否した。 1月28日、ニジネウヂンスク郊外でチェコスロヴァキア軍の後衛部隊は赤軍第五軍の前衛部隊から打撃を受けた。 (チェコスロヴァキア部隊は装甲列車4台と全ての軍用列車を放置し、徒歩で東方へ敗走することを余儀なくされた。) チェコスロヴァキア軍団司令部は交渉の再開のため代表団を派遣した。 その条件は、赤軍第五軍の前衛とチェコスロヴァキア軍後衛の間に移動中立地帯を設定すること、チェコスロヴァキア軍団の軍用列車の石炭調達と撤兵の完遂に協力することであった。 チェコスロヴァキア軍団司令部は、コルチャークおよび彼の側近の運命に干渉しない、白衛軍を支援しない、彼らおよび列車中の旧コルチャーク軍の軍事物資を搬出しない、ロシアの金準備、橋梁、機関車庫、駅、トンネル、そして運行列車の終着駅到着後は機関車の車両を、損傷なしにソヴェト権力に引渡すことの義務を負った。 1920年2月7日、コルチャーク提督が銃殺されたその日、イルクーツクの北西320km のクイトゥン駅で、チェコスロヴァキア軍団司令部とソヴェト政府との間で続けられていた交渉 (我々は君たちに黄金と生身のコルチャークを、君たちは我々に祖国帰還のための機関車と車両を) に関しての合意書に、双方の代表は署名した (クイトゥン合意 Куйтунское соглашение)。 クイトゥン合意によって、3月1日にイルクーツクの軍事革命委員会代表に額面価格4億962万5,870ルーブル86コペイカの黄金などの貴金属が入った5,143箱と1,678袋を載せた車両18両が引き渡された。 このロシア国家の金準備は、3月3日にカザンに届けられ、銀行の金庫へ入れられた。
ハイラル (海拉爾) 事件 祖国へ引き揚げるためのチェコスロヴァキア軍団の輸送列車は、チタでシベリア鉄道の支線に入って南東に進み、満洲里から東支鉄道でヴラヂヴォストクに向かうことになる。 その一部隊が引き揚げ途中のハイラル (北満洲・東支鉄道沿線。 現在の行政区分では内モンゴル自治区) で、1920(大正)年4月11日に日本軍部隊と衝突事件を起こした。 日本軍のハイラル憲兵分遣所に過激派ロシア人6人が逮捕されていた。 事件の前日、当地を通過することになっているチェコスロヴァキア軍部隊の中で過激派に味方しようとするグループが、これら逮捕者を奪還しようと企てていることを察知した日本軍は、11日朝、逮捕者を満洲里の駐屯地に移送するため、兵士8人に連行させて列車に乗り込ませた。 ところが、「ハイラルでの逮捕は中華民国の主権侵害である」 とする東支鉄道守備の中国軍部隊が、護送の中止と逮捕者の引き渡しを要求し、列車の周囲を中国兵、チェコスロヴァキア兵、群集が取り囲み、不穏な情勢となった。 日本軍部隊50人が急遽駆けつけ、にらみ合いになるが、午後8時過ぎに群衆の中から爆弾が投げ付けられたことを機に、中国兵、チェコスロヴァキア兵が発砲し、これに対して日本軍部隊も応戦した。 事態を重くみた日本軍は満洲里から増援隊として歩兵1個大隊を派遣してこれを威嚇・鎮撫し、13日、チェコスロヴァキア軍部隊の武装を解除することによって事件は解決した。 日本側の死傷は戦死4、負傷20であった。 これに対してチェコスロヴァキア軍部隊の死者1、負傷した将校1、下士卒12、中国軍部隊にも多数の死傷者がでた。 è 「ハイラルで日中衝突、チェコ軍も中国側に」 (大正9年(1920年)4月15日 「東京朝日新聞」)
以上は日本側の見解であるが、当然のことながら、相手側にも言い分がある。
東支鉄道守備の中国軍部隊: 日本軍の行為(中国領土であるハイラルでのロシア人逮捕)は中華民国に対する主権侵害である。
ハイラル事件およびそれについてのチェコスロヴァキア軍団側の主張については、以下を参照されたい。 è
「長與進:歴史を検証するとはどういうことか ─ 1920 年 4 月のハイラル事件を例にして─」
チェコスロヴァキア軍団の帰国
チェコスロヴァキア軍団兵員の祖国帰還は、アメリカ合衆国の輸送船で3万6,000人、イギリス船で1万5,000人、その他日本、ロシア、中国の輸送船を使って行われた。
一部の兵員の帰国は1919(大正8)年の初頭から始まっていたようであるが (帰還第1船はイタリア船籍の 「ローマ号」 で1919年1月15日ヴラヂヴォストク出港、同年3月10日ナポリ着)、本格的な帰還は1920(大正9)年2月以降になる (ロシア船籍 「ニジニー・ノヴゴロド号」 で1920年2月13日出港、同年4月8日イタリア北部のトリエステ着)。
1919(大正8)年8月13日に帰還第3船としてチェコスロヴァキア軍団の将兵を乗せてヴラヂヴォストクを出航したアメリカ合衆国の輸送船 「ヘフロン号 "Heffron" (11,800トン)」 は、台風に遭遇して8月16日下関沖の六連島大文字岩の暗礁で座礁。
沈没は免れたが、船は修理のため神戸へ曳航され三菱船渠で修理されることになった。 乗船していた軍団の将兵は、同年9月に列車で神戸着。 修理の期間中2か月間、神戸市で待機することになった。
修理後、10月30日に神戸を後にして、12月17日にイタリア北部のトリエステ着。
(その翌年、「ヘフロン号」 は最後の帰国船として用いられることになる。)
当時の新聞報道によれば、乗船していたのは米国軍隊の少佐3名と兵士827名 となっている。
この新聞報道は取材した記者の早とちりか、あるいは、この微妙な時期における 「何らかの事情」 による故意の国籍詐称によるものか ...。
1920(大正9)年9月2日、チェコスロヴァキア軍団最後の梯団1,250名を乗せた輸送船 「ヘフロン号 "Heffron"」 はヴラヂヴォストクを出港した (同年11月11日トリエステ着)。
これに伴って、チェコスロヴァキア軍団と赤軍の双方遵守したクイトゥン合意は自然失効した。
ロシアの内戦で、約4,000 の軍団将兵が死傷したといわれている。
è 「チェコ軍が撤退を完了」 (大正9年(1920年)9月2日 「大阪毎日新聞」)
日本でのチェコスロヴァキア軍団将兵
帰還第3船として1919(大正8)年8月15日にヴラヂヴォストクを出港したアメリカ合衆国船籍の 「ヘフロン号」 は台風を避けようとして、下関沖で座礁した。
沈没は免れたが、船は修理のため神戸の川崎造船所のドッグへ曳航され、乗船していた軍団将兵は同年9月に列車で神戸へ移動、船の修理が完了する同年10月末まで神戸に滞在した。
その2か月ほどの間に、軍団将兵は神戸の市民と文化・スポーツ交流を行っている。
祖国帰還の途中、ロシア国内や中継地の日本で多くの将兵が病没している。
以下のブログには、解放された祖国へ帰還しえなかった kteří nedostali do osvobozené vlasti 5人の兵士の墓について紹介されている。 è
「チェコスロヴァキア軍団と日本」
チェコ共和国 オフィシャルブログ
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「ああ、我が日の出る国 ─ チェコ文学におけるジャポニズム ─」
(p.26/29) ジャン=ギャスパール・パーレニーチェク(高松美織訳)/静岡市美術館
本稿における新聞記事は 『大正ニュース事典』(毎日コミュニケーションズ、1987年) より転用した。
ただし、『大正ニュース事典』 では、記事の見出しは元の資料と異なっており、本文も現代風に書き直されている。
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Čs. legie v Rusku, Den sokolů, 1 Rubl
表面:中央部にロシア語で 「1ルーブル」 の額面、四隅にロシア語で 「ソコルの日」 の字句。
「1」 の背景にある模様は、チェコスロヴァキア軍団の記章 |
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Čs. legie v Rusku, Den sokolů, 50 Kopějka
表面:中央部にロシア語で 「50コペイカ」 の額面と 「ソコルの日」 の字句、その上部および下部にロシア語で 「本日のみ有効」 の字句。 |
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ソコル Sokol (チェコ語で 「隼 (ハヤブサ)」 を意味する) とは、若者の体を鍛えることを目的として1862年にチェコで結成された体育運動の組織であったが、後にオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあるスラヴ諸民族の連帯・団結を促す愛国的な運動として発展していった。 第一次大戦では、ソコルの団員は進んでチェコスロヴァキア軍団に参加した。 |
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《追記》 フランスおよびイタリアにおけるチェコスロヴァキア軍団
チェコスロヴァキア軍団は、ロシア以外に、フランスやイタリアでも編制されている。 フランスにおけるチェコスロヴァキア軍団
フランスでは、1914年8月13日に、フランス南西部のフランス領バスクの中心都市 バイヨンヌ Bayonne で、外人部隊 Légion étrangère (外国人志願兵で構成される正規部隊) の歩兵連隊の一中隊として編成 された。 1914年10月23日、中隊はモロッコ師団に属して、シャンパーニュ Champagne 近郊の前線へ出陣した。 250人の中隊は、1915年5月9日のアラス Arras の戦いなどで活躍したが、甚大な損害を被った。 アラスでの損害の後、1915年5月16日に所属する大隊が解散されてチェコ人の中隊はなくなり、チェコ人兵士たちは、さまざまな外人部隊へ転属させられた。 フランスのポアンカレ大統領 Raymond Poincaré, 1860-1934 による1917年12月19日付大統領令によって、チェコスロヴァキア歩兵旅団 Československá střelecká brigáda が編制されることになった。 翌1918年1月12日にコニャック市 Cognac で、フランス外人部隊のチェコ人兵士と、自発的に投降してセルビア軍に入ったチェコ人たちから成る第21連隊が編制された。 5月20日にはジャルナック市 Jarnac で、ロシアから渡ってきたチェコスロヴァキア人の義勇兵や、第21連隊から分かれたチェコ人兵士を中心として、第22連隊が組織された。 1918年6月30日、チェコスロヴァキア歩兵旅団の2つの連隊はダルネイ市 Darney でフランス大統領から連隊旗を授与され、軍旗宣誓を行った (この日が 「チェコ共和国軍の日」 に制定された)。 大戦が終了するまでに、アメリカからのチェコ人とスロヴァキア人や、他の外人部隊のチェコスロヴァキア人兵士で、第23および第24連隊が編制された。 フランスでは630人のチェコスロヴァキア人が戦死し、1919年1月のチェコスロヴァキア共和国への帰国時には、旅団の兵員は9600人を数えた。 帰国後、旅団は重装備されて第五師団に改編され、1919年の前半にはチェシーン Těšín 地方での戦闘やスロヴァキアで武功を立てた。 イタリアにおけるチェコスロヴァキア軍団
1917年1月17日、ナポリ近郊のサンタ・マリーア・カープア・ヴェーテレ Santa Maria Capua Vetere (イタリア共和国カンパニア州カゼルタ県) の俘虜収容所内で、チェコスロヴァキア義勇軍団が組織されたが、イタリア政府はチェコスロヴァキア人の戦闘部隊の編制を許可しなかった。 そして義勇軍団の兵士たちは労働力として用いられた。 イタリア軍のカポレット Caporettо の敗北 (1917年10月24日〜11月9日) の後に、チェコスロヴァキア人の偵察隊がイタリア人の部隊に付属して漸次編制された。 ミラン・シュテファーニク Milan Rastislav Štefánik, 1880-1919 (スロバキアの軍人、政治家、天文学者。 第一次大戦中にトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュとともにチェコスロバキアの独立運動を率いた中心的人物) の外交努力によって、1918年4月27日にイタリアにおける独立したチェコスロヴァキア軍の編制許可を得ることに成功し、この年の6月までに4個連隊から成る第六師団が編制された。 1918年9月には更に2個連隊が編制されて第七師団となった。 その結果、6個歩兵連隊と1個砲兵連隊を有する戦列軍団が誕生する。 イタリアでは、兵力2万のチェコスロヴァキア軍団から355人の戦死者を出し、オーストリア・ハンガリー軍の捕虜になった兵士55人が刑死した。 1918年12月末に祖国に帰還した軍団は、1919年春にはハンガリーのボリシェヴィキ (クン・ベーラ Kun Béla 政権) からスロヴァキアを解放するために貢献した。 * チェコスロヴァキア軍団は、オーストリア・ハンガリーの圧政からのチェコとスロヴァキアの解放闘争として生まれた。 軍団の将兵たちは、存在していない国家の戦士として、ロシアやフランスやイタリアの前線で、その誕生を闘い取った。 そして、軍団は独立共和国のチェコスロヴァキア軍の基となったのである。
Pamětní stříbrná mince vydaná ke 100. výročí založení československých legií
《解 説》
シベリア争乱、1918−1920年 / |