ロシアの通貨 ≫ (ロシア革命の貨幣史) シベリア異聞 / |
(余 話) ロシアの黄金強奪事件 黄金強奪事件の顛末
Гл.ред.С.С. Хромов; "Гражданская война и военная интервенция в СССР" 第一次大戦末期の1918年初頭、ソヴェト政府は、ドイツ軍進攻の危機が迫ったことによって、掠奪の危険にさらされている地域にあるロシアの金準備 (外貨支払い準備) を、 より安全なカザンの銀行の金庫に集めることを指示した。 1918年5月、モスクワ、タムボフ、サマラに保管されている金・銀・プラチナ・有価証券などから成るロシアの金準備が、カザンに移送された。 危険性の高いペトログラードからはもっと早い時期に搬出されている。
ロシア国立銀行は十月革命当時 12億6000万ルーブルの金準備を国内に保有していた。
これは金換算で975.5トンの黄金に相当する。 ちなみに、ソヴェト連邦時代の金保有高は、(長い間極秘扱いされてきたが) 1991年7月に 374トンと、 ソヴェト連邦の政府機関紙イズヴェスチヤが発表している。 1918年5月に チェコスロヴァキア軍団 の反乱が勃発した。 ヴォルガ中流域、ウラルおよびシベリアの鉄道沿線に分散していた軍団の部隊は、各地の反革命勢力と手を結び、鉄道沿線の主要都市を次々に占拠していった。 つい最近まで後方の安全な都市であったカザンも、反革命勢力の進攻の危険を直接受けるようになっていた。 6月になって国立銀行の地方機関の幹部は全ての財貨をカザンからモスクワのクレムリンの地下室へ移送することを指令した。 実行部隊が編成され、移送に必要な書類が整えられ、曳き船や荷船の準備についての指図がなされた。 しかし、事態はさらに尖鋭化していた。 7月22日にシンビルスク、25日にはエカテリンブルグが陥ちた。 モスクワのソヴェト政府はカザンの財貨の撤退期日を8月5日と決めた。 しかし、まさにその日、荷積みおよび財貨を桟橋へ移送するための労働者が銀行の建物へ到着した夕方の8時に最初の砲撃が轟き、そこへ白衛軍とチェコスロヴァキア人部隊が踏み込んできた。 8月7日の夕方6時には、V.O.カッペリ陸軍大佐 (1883−1920、1919年に全ロシア臨時政府軍の陸軍中将) の指揮のもと、 白衛軍とチェコスロヴァキア軍の混成部隊がカザンを占領した。 銀行のカザン支店の地下室で彼らは膨大な戦利品を手に入れたのである。 捕獲された財貨は黄金(金貨、インゴット、金製品)だけで総重量 30,563プード (約500トン) あり、それ以外にも、銀やプラチナ、有価証券が保管されていた。 一方、ボルシェヴィキは 612万3,796ルーブル (金換算約4.7トン) 分の黄金100箱のみの撤退をなし得たにすぎない。 カザンから大量の財貨を退避する計画は水泡に帰したのである。 反革命勢力の手中に陥ちたロシア国家の金準備は、コムチ (憲法制定議会議員委員会) が支配していたサマラへ向けて搬送された。 サマラには、1918年6月8日にチェコスロヴァキア軍部隊に占領された後、反革命勢力によって 「憲法制定議会議員委員会 (コムチ)」 が組織されていた。 サマラに到着した金準備は、赤軍に奪回されることを恐れて、より東方のウファへ、さらに10月には反革命の中心都市オムスクへ移送された (現存する調査資料からはカザンから搬出された金準備の正確な価値は不明である)。 1918年11月、ロシアの金準備を載せた軍用列車はオムスクへ到着した。 鉄道の駅から市の中心部まで軍隊が立哨し、その厳重な警備の下に財貨が国立銀行オムスク支店の金庫へ運ばれた。
オムスクでは、1918年10月にイギリスの支援で反革命の 「全ロシア臨時政府 (オムスク政府)」 が樹立されていたが、帝政ロシアの元黒海艦隊司令官 コルチャーク 提督が11月18日にクーデターを起こして最高執政官に就任し、軍事独裁政権を樹立した。 強奪されたロシアの黄金 (金準備) は、コルチャーク提督の掌中に入ったのである。 コルチャーク提督の命令で、1919年5月に実施された監査によって、金準備の概算額面価格は6億5,153万2,117ルーブル86コペイカと算定された。 連合国列強はオムスク政府に軍需品や食糧などの援助を行ったが、これは善意によるものでも、無償でもなかった。 ロシアの黄金は、この連合国列強からの支援の 「担保」 になった。 コルチャークの政府は、フランス、イギリス、日本、アメリカ合衆国からの武器・兵器の購入、政府の官吏や装備品の維持のために、この金準備からおよそ1万1,500プード(約188トン)の金(約2億4,200万金ルーブル)を費い尽くした。
「プード」はロシアの旧い重量単位で、1プード=16.38 kg 。
1919年の春、連合国列強の支援のもとにウラル方面に進出していたコルチャーク軍は、南ロシアからモスクワを目指して北上する デニキン 軍や、ロシア北西部の ユデニチ 軍と呼応して、一時期はヴォルガ河の西方まで進攻したが、 赤軍の総反撃によって敗退した。 1919年5月25日〜6月19日、赤軍第五軍などによるウファ進撃で、コルチャーク軍は大敗を喫す。 コルチャーク軍を追撃してきた赤軍は、1919年10月20日、イシム河の左側背を突破し、オムスク西方約300キロに迫った。 オムスク政府の各官庁はイルクーツクへの移転を開始した。 オムスクには最高執政官コルチャーク提督と閣僚、軍幹部が残留したが、11月12日にはコルチャークと閣僚たちもオムスクを捨てた。 赤軍の追撃から逃れるコルチャークの列車と一緒に、オムスクからロシアの金準備を載せた軍用列車が出発した。 11月14日、赤軍は北方からオムスクを包囲し、同日、オムスクは陥落した。 最高執政官コルチャーク提督らオムスク政府の首脳部は、それぞれ2両の機関車が引く6列車でイルクーツクを目指していた。 その後を、金準備などの重要品を運ぶ29両編成の軍用列車が続いた。 そして、線路の横を橇や馬に乗り、あるいは徒歩で東に向かう難民の列が動いていた。 沿線各地ではコルチャーク提督に不満を持つ地方勢力が蜂起し、コルチャークの一行は反コルチャークの勢力によって四面楚歌の状況であった。 列車は混雑し、しばしば予告なしに停車し発車する不規則運転を繰り返した。 コルチャークの列車は、12月7日にトムスク南方のタイガ、 12月13日にマリンスク、12月17日にクラスノヤルスク、そして 12月27日にはニジネウヂンスク駅に到着した。 駅は、チェコスロヴァキア軍第六連隊が守備していたが、コルチャークの列車が停止すると、前後に装甲列車が位置し、 線路上に配置されたチェコスロヴァキア軍兵士が機関銃と小銃で列車を包囲した。 ニジネウヂンスクではコルチャーク提督に不満を持つ市の守備隊が蜂起しており、 彼らからコルチャーク提督を 「警護」 するためであるとされたが、コルチャーク提督は彼の親衛隊を解散することを余儀なくされた。 フランス派遣部隊の司令官M.ジャナン将軍 (フランス陸軍中将。 バイカル湖以西連合軍指揮官でありチェコスロヴァキア軍統督の責任を持つ) の命令で、チェコスロヴァキア軍団司令部はコルチャークの列車と貴金属を載せた軍用列車をチェコスロヴァキア軍部隊の保護下に拘束した。 そのころ、イルクーツクの情勢は、ますます不穏になっていた。 アンガラ河に沿うイルクーツクは、当時129,700の人口を有し、オムスク (135,800人) に次ぐシベリア第2の都会であった。 イルクーツクには、コルチャークの本隊より一足先に到着していたオムスク政府の閣僚のほか、連合国代表団や各国の派遣軍が駐在していたが、赤軍接近の噂で動揺していた。 前年の12月に、社会革命党 (エスエル) やメンシェヴィキ、ゼムストヴォ市会など数十の政党団体代表者によって結成された 「政治センター」 が反コルチャークで蜂起し、市の北部を占領していたが、1月4日には最高執政官と首相が不在のコルチャーク政府は崩壊して、市の実権は反コルチャーク派の手に帰した。 1月8日、コルチャークの列車はニジネウヂンスクからイルクーツクへ向かって東行を再開した。 しかし、その時点には、連合国代表団や各国の派遣部隊はイルクーツクを引き揚げており、イルクーツクは反コルチャーク派に支配されていた。
《クイトゥン合意に向かっての休戦交渉》 1月15日、コルチャークの列車はイルクーツク駅に到着した。 このとき、イルクーツクには日本軍派遣隊 (第五師団第十一連隊のイルクーツク派遣隊約1個大隊) が殿(しんがり) として残っていたが、 チェコスロヴァキア軍の無事撤退を第一目的とするジャナン将軍の命令により、コルチャーク提督とオムスク政府首相 V.N.ペペリャーエフ (1884-1920) の身柄が、 コルチャークを警護してきたチェコスロヴァキア部隊からイルクーツクの 「政治センター」 に引き渡され、それからボリシェヴィキの軍事革命委員会の手に移された。 コルチャークとペペリャーエフは刑務所に収監された。 日本軍派遣隊は、1月19日にイルクーツクを撤収している。
《クイトゥン合意に向かっての休戦交渉》 1月28日、ニジネウヂンスク郊外でチェコスロヴァキア軍の後衛部隊は赤軍第五軍の前衛部隊から打撃を受けた。 (チェコスロヴァキア部隊は装甲列車4台と全ての軍用列車を放置し、徒歩で東方へ敗走することを余儀なくされた。) チェコスロヴァキア軍団司令部は交渉の再開のため代表団を派遣した。 その条件は、赤軍第五軍の前衛とチェコスロヴァキア軍後衛の間に移動中立地帯を設定すること、チェコスロヴァキア軍団の軍用列車の石炭調達と撤兵の完遂に協力することであった。 チェコスロヴァキア軍団司令部は、コルチャークおよび彼の側近の運命に干渉しない、白衛軍を支援しない、彼らおよび列車中の旧コルチャーク軍の軍事物資を搬出しない、 共和国の金準備、橋梁、機関車庫、駅、トンネル、そして運行の終着駅到着の後には機関車の車両を、損傷なしにソヴェト権力に引渡すことの義務を負った。 1920年1月末、イルクーツク市内ではコルチャーク提督を擁立する反革命の動きが顕著になった。 このような情勢の中、コルチャーク軍の残党が提督救出のためにイルクーツクへ急進しているとの情報がイルクーツクにもたらされた。 軍事的に手薄であったイルクーツク市内は恐慌状態になった。 このままでは流血の惨事は必至であるので、コルチャークに対する特別予審委員会は、人民多数の死傷を防止するために、騒乱の禍根であるコルチャーク提督とオムスク政府首相のペペリャーエフを 「緊急処置」 として処刑するむねを、イルクーツクへ進軍中の赤軍第五軍に問い合せた。 2月6日、コルチャーク軍部隊がイルクーツク駅を攻撃した。 この夜、赤軍第五軍と連絡がとれ、同軍指揮官は、提督と首相の処刑はやむを得ない情勢と認められる、と通告してきた。 2月7日未明、銃殺隊が刑務所に到着した。 コルチャーク提督とペペリャーエフ首相に処刑が告げられ、2人は監房から引き出された。
《クイトゥン合意》 コルチャークを救助しロシアの金準備をソヴェト国家から搬出する試みは成功しなかった。 (ジャナン将軍は金準備を日本軍の派遣部隊へ引渡すことを命じ、チェコスロヴァキア外務大臣E.ベネシュはそれをチェコスロヴァキアへ送り届けようと努めていた。) クイトゥンの合意によって、3月1日にイルクーツクの軍事革命委員会代表に額面価格4億962万5,870ルーブル86コペイカの黄金などの貴金属が入った5,143箱と1,678袋を載せた車両18両が引き渡された。 このロシア国家の金準備は、1920年3月3日にカザンに届けられ、銀行の金庫へ入れられた。 4億962万5,870ルーブル86コペイカ (黄金 317トンに相当) は、1920年 (大正9年) 当時の日本の一般会計歳出額13億6,000万円 (内、一般会計軍事費6億5,000万円) と比較すれば、相当な金額である (当時、1金ルーブルは、ほぼ1円)。 チェコスロヴァキア軍団の最後の部隊のロシアからの撤兵(1920年10月)に伴って、双方遵守したクイトゥンの合意は10月に自然失効した。 「軍団が所有していた金準備の一部は引き渡されずに、軍団が密かに持ち帰えり、チェコスロヴァキア建国の資金になった」 といった風説もあったようであるが、誇り高いチェコ人やスロヴァキア人たちが、クイトゥンでの合意を反故にするような姑息なことを行ったとは、到底考えられない。
1991年9月13日にイズヴェスチヤ紙が報道した、ペトロフ将軍が満洲駐留の日本軍に一時預けしたという黄金 (強奪された金準備の全体からみると、きわめて微々たる量である) は、 「ロシアの金準備」 の警備がチェコスロヴァキア軍団に移管される前に隠匿されたものであろう。
それ以外にも、セミョーノフ軍の金塊強奪事件など、「シベリア出兵」の周辺には、黄金にまつわる話題は尽きないが、ここから事件の舞台は日本に移ることになる。
日本は、ロシアの黄金22箱を返還するか /
黄金強奪事件の顛末 /
《解 説》
1918−22年、シベリアの社会・政治情勢 |