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ロシア革命の貨幣史

大阪造幣局でのロシア貨幣の製造

 

1904〜1905年の日露戦争を契機として、それまで対立していたロシアと日本の関係は一転し、 1907年には日露協約が締結され、数度に及ぶ条約の改定を経て両国は急速に接近していた。 このような日露関係の下に、1916年にはロシア政府は自国の低額面貨幣の不足に対処するため、 額面 15 および 10コペイカの2種類の補助貨幣の製造の一部を日本政府に依頼した。 当時大阪造幣局では " 甚だ繁忙を極めていたにもかかわらず、この貨幣の製造も急を要する とのことであったので、残業や休日出勤をしてこの注文に応じた。 (造幣局百年史)"

大阪造幣局が製造した 15コペイカ銀貨と 10コペイカ銀貨 (1916年)

貨幣の極印はロシア政府提供によったものを用い、ペトログラード造幣局で製造していたものと 全く同様であったが、ロシア製のものには造幣局長のイニシャル (1916年当時はヴィクトル・スミルノフ) "В.С. " が貨幣の表面 ("双頭の鷲" の紋章の尾羽の両側) に付いているのに対して、大阪造幣局製のものにはこれがない。

これらの貨幣の製造は、1916年3月に着手されて 12月に完了しており、その製造数量は次のように 記録されている。

15コペイカ銀貨

96,666,000枚

10コペイカ銀貨

70,001,000枚

合計

166,667,000枚
(2,150万ルーブル相当)

 

この当時の大阪造幣局の貨幣製造能力は年産2億枚程度であり、それに比較して ロシア貨幣の製造受託は大阪造幣局にとって至難の大事業であったものと思われる。

 

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