ページを閉じる  

ケレンスキー、アレクサンドル・フョードロヴィチ

 

А.Ф. Керенский (1881-1970) Керенский, Александр Фёдорович (1881−1970)

父はシンビルスク地方の学校教師を勤め、母はドイツ系のユダヤ人であった。

ケレンスキーの父は、レーニンの通ったギムナジヤ (中学校) の校長であり、 また、レーニンの亡父の遺言によって、レーニン一家の後見人になっていた。 皇帝暗殺陰謀事件に連座した国事犯の弟であるレーニンが、カザン大学へ入学することは困難であったが、それに対して、ケレンスキーの父は多大な支援を行ったという。

ケレンスキーは、ペテルブルク大学で法律を学び、弁護士となった。 彼は聡明・気力旺盛で、法廷の弁論にも生彩を帯びており、自ら好んで政治犯や労働者階級の事件を取り扱った。 選ばれて議会に出たのは、第四国会 (1912年) が始めてで、彼は労働派 (トルドヴィキ) と称する小会派のリーダーであったが、実質的には社会革命党 (エスエル) の分派として、左翼系統に属していた。

第一次大戦が始まって以来、ケレンスキーは常に領土拡張、侵略政策に反対していた。 革命以前から彼は熱心に全国各地、殊に農村を遊説して、ヴォルガ沿岸や北方ロシア地方で人気を博した。 ケレンスキーは中肉中背で、髯のない、やや細長い顔に鋭い目を光らせながらの少壮気鋭の熱弁は、聴く者を魅するに充分であったという。

А.Ф. Керенский 二月革命後、ケレンスキーはペトログラード労働者ソヴェト副議長を勤めていたが、 新しい指導者として大衆の期待を受け、 ロマノフ王朝に代わってドゥマ (国会) を基礎とした自由主義派議員によって形成された臨時政府で法相、次いで陸相、 さらに7月8日 (現行歴21日) には首相となった。

ケレンスキーの属した社会革命党 (エスエル) はナロードニキの流れをくみ、専制打倒と土地革命を主張した。 革命後は臨時政府内で、言論出版の自由、ストライキ権、普通選挙、土地改革など、 市民的改革を約したが、挙国一致による戦争継続を主張し、レーニンの率いるボリシェヴィキ (ロシア社会民主労働党 多数派) と対立した。

総軍司令官コルニーロフ将軍のクーデター未遂事件 (9月) はボリシェヴィキ (ロシア社会民主労働党 多数派) の協力で鎮定したものの、 やがてボリシェヴィキ派のソヴェト権力と対立し、十月革命が勃発すると冬宮 (ケレンスキーの執務場所) を脱出し、フランス・イギリスで亡命生活を送ったのち、アメリカへ移り(1940年)、ニューヨークで没した(1970年)。


 

А.Ф. Керенский 二月革命の当時、ケレンスキーは新しい指導者として大衆の期待を一身に受けた。 彼は、多年にわたって官僚保守の勢力に対抗して闘い、大衆を惹きつける熱意と雄弁をもっていた。 ケレンスキーは愛国者であるが故に、戦争に勝利することを願い、国家が混乱に陥ることを憂いて、法と秩序の維持を欲した。 多くの人は、彼を精力的な勇気ある政治家であると信じ、彼を支持することが祖国と革命に忠実であると考えた。

しかし、彼の政治力はその弁舌のように強力なものではなかった。 政治的難局に当面するごとに、彼の優柔不断な行き方が世人の期待を裏切った。 彼は、その所信断行を決意することに躊躇し、決意をもっても実行に臆病であった。 彼は、非常時の首相という職に在りながら、その権力を行使することは稀であった。 それが易々とボリシェヴィキ革命を成功させることになったのである。
(「芦田均 『革命前夜のロシア』 文藝春秋新社、昭和25年」 より抜粋・要約)

 

 ページを閉じる