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『石光真清の手記』 より

ブラゴヴェシチェンスクの経済事情、1918年初頭

 

関東都督府陸軍部嘱託 (諜報員) 石光真清 (1868-1942) は、ロシア革命の直後に軍の密命を帯びてアムール州へ派遣されている。 彼が任地ブラゴヴェシチェンスクへ到着したのは、大正7年 (1918年)1月15日であったが、当時のブラゴヴェシチェンスクの市民生活、通貨事情について、石光は彼の手記の中で次のように述べている (石光真清の手記 『誰のために』(中公文庫) P.49〜50 )。

 

食糧事情はアレキセーフスカヤ (鉄道沿線の町) よりも良かった。 主要食糧品の割当切符制が早くから実施されたからで、商店の前には買物籠を提げた女子供たちが長い列をつくっていた。 乏しい配給ではあるが、晴れた静かな日には賑やかにお喋りをしながら、彼等は楽しんでいるかのようにさえ見えた。 ・・・ (中略) ・・・ 善良な市民達は、このような乏しい毎日の保障に縋って暮していた。 市当局の日用品の統制策は一応手際よく実施されていたが、中国商人の商才にはかなわなかった。 アレキセーフスカヤと同様に、彼等は帝政時代のロマノフ紙幣か貨幣でなければ受取らなかった。 そしてロマノフ紙幣で貨幣を買い集めた。 このため小銭が払底したので、市当局では小額紙幣の欠乏を補うために、州内で通用する補助紙幣を発行したが、中国商人はこれをボイコットした。 市当局は幾たびか布告を出して中国商人の協力を求めた末に、ようやく通用するようになったが、レートをうんと下げて安く扱った。 こうするうちにブラゴベシチェンスクばかりでなく、東部シベリア一帯の通貨制度は混乱して、通貨の代りに郵便切手や公債の利札などが通用するようになり、中国人の懐中に集まった帝政時代の貨幣価値はあがる一方であった。 市民達は物を得る前に、まず通用する紙幣を手に入れなければならなかった。 善良な市民ほど、このような準備がなかったし、不手際な取引をやった。 彼等は思い出の籠った宝石を一つ一つ胸を痛めて売り、夜会服を二束三文で手離して、中国人からロマノフ紙幣を手に入れなければならなかった。
中国商人の金庫に集まったロマノフ銀貨や貴金属や宝石は、革命をおそれてアムール河を渡り黒河鎮に流れた。 かってはゼーヤ金礦の砂金がアムール河を渡って黒河鎮の闇市を賑わせ、馬賊どもの財政源をなしていた時と同じコースを辿って、ロシア市民の財産は満洲の彼方に吸いとられて行った。

 

Благовещенск. 
Большая улица, 
(Сибирский банк)
ブラゴヴェシチェンスクの街並み ― 大通り (シベリア銀行)

 


 

《参 考》

石光真清の手記 『誰のために』 では、ロシア革命の直後、1918年初頭のブラゴヴェシチェンスクの通貨事情を客観的に淡々と述べているが、その前作ともいえる 『続諜報記 ― シベリヤ篇』 では、 中国人商人の如才無さを示す 「たとえ話」 に絡めて、「二十年後の復讐」 の見出しのもとに、「アムール河畔の惨劇」 事件に対する石光の拘りを語っている (『続諜報記 ― シベリヤ篇』 P.26〜27 )。

「アムール河畔の惨劇」 事件
清朝末期に起った排外運動は、1898年〜99年には山東省で 「義和団の乱」 と呼ばれる大乱になった。 1900年(明治33年) に義和団事件が北京・天津に波及すると、保守排外的な傾向に傾いていた清国政府は、「扶清滅洋 (清をたすけ西洋を滅ぼす)」 をスローガンとした義和団を支援して、列国に対して宣戦を布告したが、列強8か国 (ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリア・日本) は連合軍約2万でこれを鎮圧した (北清事変)。 満洲では、これを契機に満洲侵略を目論むロシア軍と清国軍が衝突している。 アムール河(黒龍江) を哈爾浜(ハルビン) に向って航行中の軍需品を満載したロシア船舶が愛暉の河岸近くで清国兵に銃撃されたことに対してロシア軍の報復が始まり、1900年7月16日、ロシア領内にいた3千の清国人を老若男女を問わず虐殺してアムール河に投げ込んだ。 石光真清はこのときの惨状を 「惨殺死体が筏(いかだ) のように黒竜江(アムール) の濁流に流されれた」 と表現している。 この惨劇は、「ブラゴヴェヒチェンスクの大虐殺」、「アムール河の流血」 事件、「黒龍江上の悲劇」 として語り継がれている。 その後の露満国境でのロシア軍による清国軍掃討によって、その数1万とも2万5千とも言われる避難民が虐殺された。 北清事変は、1901年(明治34年)9月に最終議定書が結ばれた。

食糧は一般に主要物資について切符制が行はれ、商店の前に主婦達が籠を片手に下げて長々と列んで順を待つと云ふ不便があったが、左程急迫の模様はなかった。 然し小額紙幣が甚しく缺乏して日用品の購入に不便を来してゐた。 これは、従来日用雑貨類の商売は殆ど支那人がやつてゐたので、彼等は革命勃発と共に帝政時代の紙幣でなければ絶対に取引を行はず、一切の取引は総て帝政時代の現金で行はれたゝめ、著しく現金が支那人の懐中に偏在することになつたばかりでなく、彼等は更に帝政時代の貨幣を買ひ集めて、その値上りを狙ふと云ふ抜目ない算盤を弾き始めた。 これに困却した市当局では新たに補助貨幣を発行して急場を忍ばんとしたが、支那人商人の肘鉄砲に遭つて価値の低下を来たし、うまうまと彼等の懐中を肥やすのみであった。 遂にはブラゴヴェヒチェンスクのみでなく、東部シベリア一帯に亘つて貨幣の代りに切手や公債の利札などが流通し出して、帝政時代の貨幣騰貴を煽るばかりであった。 この趨勢を見乍ら、露細亞側では如何とも手の下しようなく、渋面を作るばかりだつたのである。遂には帝政時代の貨幣は満洲人を通じてアムール河を渡り対岸の黒河に流れ込んで、ブラゴヴェヒチェンスクには価値の低い不換紙幣が溢れ、物価の騰貴と労銀の高騰を来した。 これが為、労働者の生活が左程窮迫しないのに引かへ、一般俸給生活者、官吏は尠からず生活を脅かされて不安動揺を来したため、赤であれ白であれ、いづれの党派が天下を取つても良いから、政治が一日も早く安定してくれゝば良いと云ふ気持になつてしまつた。 廿年の昔、アムール河畔で蟲けらのように一萬餘名虐殺の非道なる仕打を受けた清國人は、廿年後の今日、武器を取らずして立派に復讐を果したのであった。 露國官邊は、武器を片手に持ちながらも、辭を低うして支那商人の鼻息をうかゞはねば何事もなし得ない状態に陥つてしまつたのである。

 

Благовещенск. 
Городская управа
ブラゴヴェシチェンスク市庁舎

Благовещенск. 
Государственый банк
国立銀行ブラゴヴェシチェンスク支店

 

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