帝政ロシアの通貨事情 |
《雑記》 ドストエフスキーの世界
本稿では、ドストエフスキー/亀山郁夫 訳 『罪と罰』 全3冊(光文社古典新訳文庫) に基づいて、19世紀ロシアの通貨事情を眺めてみたい。 通貨に関する話題の題材に、ドストエフスキーの著作およびその新訳本を基礎にしたのは、亀山氏が訳本巻末の 「読書ガイド」 で述べられておられるように、「ドストエフスキーは、古今東西の文豪のなかでも、お金のもっている運命的な力について根源的な思索を重ねた作家であり、どの作品にもお金の問題がなまなましく登場する」 ためで、他の訳本などではあまり説明されていないロシアの貨幣価値についても解説されていることによる。
ロシア貨幣の貨幣価値について フョードル M.ドストエフスキー Фёдор Михайлович Достоевский, 1821-1881 が活動した19世紀後半のロシアにおける市民の生活感覚と貨幣価値の関係について、亀山訳 『罪と罰』 では巻末の 「読書ノート」 の 「8 ロシアのお金」 で明快に解説されている。 その中で、ラスコーリニコフが質草として金貸し老女のもとに持ち込んだ 《父親の形見》 の銀時計の質値が 「利子天引きで、一ルーブル五十コペイカ」 であったことに対して、「当時の一ルーブル五十コペイカは、現在の日本の貨幣価値に照らして、どの程度の額なのだろうか」 と問い、その答えとして 「一ルーブルを約千円と想定していただいておおよそまちがいない」 と説明されている。 この 「1ルーブル=1000円くらい」 という換算率について、ロシアの通貨に関心のある者としては、いささか気になるところであるが、文学作品を面白く読むためには換算率は単純明快であることが重要であり、当時の1ルーブルは何千何百何十円などといってみたところで、小説の中に出てくる金額が直感的に換算できなければ全く意味がない。 また、現実問題として、「社会の仕組みも、生活様式も、価値感もまるで異なる時代に、物の値段を一律にイメージすることはかなりむずかしい」。 その点、この亀山氏の 「1ルーブル=1000円くらい」 という換算率は、文学作品を味わううえで極めて妥当で適切な数値であると考える。 同じく亀山氏の訳による 『カラマーゾフの兄弟』 全5冊 (光文社古典新訳文庫) の 「読書ガイド」 では、「一八六〇年代のロシアの大学教員の年収が三千ルーブル」 であったことを根拠にして、「一ルーブル五百〜千円と考えるのがかなり妥当な線ではないか」 と説明している。 そうすると、当時の大学教員 (5人家族) の年収が現在の日本の貨幣価値で150万〜300万円ほどにしかならず (しかも、奉公人まで雇って)、相当窮屈な気がしないでもないが、あまり理屈っぽく追求すると、味も素っ気もないことになる。 ところで、19世紀ロシアの通貨事情を概説することを試みる本稿としては、現実問題として、「当時の1ルーブルは、現在の日本の貨幣価値に照らして、どの程度の額か」 という問題を、もう少し解明してみなければならない。 いささか理屈っぽくなるところは、ご容赦願いたい。 * * *
ドストエフスキーの活動した時代は、日本では幕末から明治初年に当る。
したがって、当時の1ルーブルを現在の日本の貨幣価値に換算するには、
1. 幕末・明治初年のロシアと日本の貨幣換算 いうまでもなく、『罪と罰 Преступление и наказание』 は1866年、『カラマーゾフの兄弟 Братья Карамазовы』 は1880年の作品である。 19世紀を通して、ロシアの通貨の基本は、純銀 4ゾロトニク21ドーリャ (17.996グラム) を含む銀ルーブルであるとされ、その1ルーブル銀貨の重量は20.732グラムであった (銀品位868、純銀分17.996グラム)。 それに対して、当時の日本の基本通貨であった 「一圓」 銀貨は重量26.956グラム、銀品位900、純銀分24.260グラムであった。 したがって、含有純銀量で換算した場合、1ルーブル=0.742円(74銭2厘)となる。
ちなみに、『世界新図』 (六盟館 明治27) の 「内外貨幣度量衡比較表」 p.27 (近代デジタルライブラリー該当ページ) には、 明治政府は、明治4年 (1871年) に 「新貨条例」 を制定し、形式上は金本位制を採用したが、金の保有量が少なく、また、東洋市場においては銀貨による対外支払が一般的であったため、「一圓」 銀貨 (量目416グレイン) や、含有純銀量を増量した外国貿易専用の 「貿易銀」 (量目420グレイン) を発行し、貿易などの対外支払に使用した。 明治11年 (1878年) には 「一圓」 銀貨の国内一般通用が認められ、金銀複本位制となったが、明治30年 (1897年) に金本位制を正式に採用するまで、日本の幣制は事実上の銀本位制であった。
2. 幕末・明治初年と現在の貨幣価値の変動率 (物価推移) したがって、当時の1ルーブルは約2200〜2700円 ということになるが、本位貨幣の実質的な価値 (当時の為替レートになるものと思われる) で単純に比較することの是非、換算に使用する物価指数、その物価指数と生活実感とのずれなどを、どのように考慮するべきか、極めて難しい問題である。
「30ルーブル銀貨」 について 父の形見の銀時計を質草にして、高利貸しの老女から1ルーブル15コペイカを受け取ったラスコーリニコフは、その帰り道、居酒屋に立ち寄るが、その居酒屋で、酔った九等官マルメラードフが、自分の娘ソーニャが娼婦に身を落とすことになったいきさつをラスコーリニコフに語るくだりがある。(第1冊 p.46) 「で、見ていると、そう、だいたい五時を過ぎたころでしたか、ソーニャは立ち上がって、スカーフをかぶり、マントを着こんでアパートを出ていき、八時過ぎにまた戻ってきました。 家に着くなりまっすぐカテリーナさんのところに行って、何も言わず、彼女の前のテーブルに三十ルーブル銀貨を置くんです。」 このフレーズが気になった。 「1. 30ルーブル銀貨というものは存在しない」、「2. 当時の銀本位制のもと、1ルーブル銀貨の重量は約20グラム、したがって30ルーブルともなれば約600グラムの重量になるはず」 という、2つの単純な疑問が生じたためである。 銀本位制であったこの時代のロシアでは、本位貨幣は秤量的であった。
これを、ロシア語テキストで確認してみると、つぎのようになっていた。
И вижу я, эдак часу в шестом, Сонечка встала, надела платочек, надела бурнусик и с квартиры отправилась, а в девятом часу и назад обратно пришла.Пришла, и прямо к Катерине Ивановне, и на стол перед ней тридцать целковых молча выложила. くせものは、целковый (ツェルコーヴィー) というロシア語である。 手もとのロシア語辞典(八杉版 「岩波ロシヤ語辞典」) には、целковый は целковник と同義であるとして、「〔俗〕 1ルーブル (最初は銀貨)」 となっている。 何のことはない。 「額面30ルーブルの銀貨」 ではなく、「30枚のツェルコーヴィー (30枚の1ルーブル)」 のことであった。 江川訳 (江川卓 『罪と罰』 岩波文庫) および工藤訳 (工藤精一郎 『罪と罰』 新潮文庫) では、この部分が 「三十ルーブリの銀貨」 となっており、「額面30ルーブルの銀貨」 の意味のほかに、「30ルーブル分の銀貨 (30ルーブルを構成する個々の銀貨の額面および数を問わず、全体で30ルーブル)」 といったニュアンスにもなる。 しかし、целковый という語は、貨幣の単位ではない。 тридцать целковых とは、「ツェルコーヴィー (1ルーブル) × 30」 ということである。 それでは、 ソーニャが初仕事で手にした稼ぎは、はたして 「銀貨」 であったのか。 「謎解き」 流に解釈すれば、この一節はユダがイエス・キリストを異教徒に売り渡した 「30枚の銀貨」 に掛けているということなのだろうが、 「30枚の1ルーブル銀貨」 となると、ソーニャは600グラムもの重量のある稼ぎを持ち帰ったことになる。 また、(その稼ぎの額が多いか少ないかはさて置き) ソーニャに30ルーブルの代金を支払った客 (1人であるとは限らないが、わずか3時間ほどでの稼ぎである。 何人かの客からのものだとしても、客の数は多くない) は無粋にも600グラム以上の、かさばるお金を持ち歩いていたことになる。 現在日本国内で流通している百円硬貨1枚の重量は4.8グラム、直径が22.6 mmであるのに対して、ドストエフスキーの時代にロシアで流通していた1ルーブル銀貨1枚の重量は20.7グラム、直径が35.5 mmである。 今どきの、日本の百円硬貨の30枚とは、訳けが違う (百円硬貨30枚でも、相当かさばるが)。 ちなみに、イエス・キリストの代償 (裏切の報酬) としてユダが得たというシェケル銀貨1枚は11.4グラムほどである。 日本の五百円硬貨の1.5倍の重さがあり、これだと30枚で342グラム (五百円硬貨47〜48枚分) となって、かなり重いが、それでもロシアの銀貨よりは相当軽い。 この時代、ローマ帝国で広く流通していた貨幣は、1枚3.8グラムにも満たないデナリウス銀貨 (デナリ) であり、それは現在の百円硬貨よりも軽い。 ユダヤ地方で流通していたシェケル銀貨はその3倍の価値があり、シェケル銀貨30枚は当時の労働者の賃金の3か月分であったという。 仮にこの30ルーブルが金貨であったらどうか。 金貨30ルーブル分 (5ルーブル金貨 × 6) の重量は、およそ39グラムであり、かさばらない。 しかし、市民が日常の買い物に (ましてや 「遊び」 の代金として) 金貨で支払をすることなど、当時の社会情勢からみて、ありえないことである。 * * * ところで、ロシアで紙幣が現れたのは1769年のことであり、それ以前は金・銀・銅貨だけの時代であった。 この小説の舞台となった1860年代ではどうか。 もちろん、本位貨幣であった1ルーブル銀貨は、当然流通していたはずであるが、流通している通貨の多くは紙幣 (国家信用券) であったと思われる。 целковый という語の意味を調べた辞書に、「最初は」 と断わってあるということは、その後は、銀貨以外にもこの語が使用されている、ということではないか。 (1860年代) 當時、ロシアはクリミヤ戦争の残滓として現はれた財政的及び商業的恐慌の陣痛の眞只中にあった。 インフレーションと、これに伴ったあらゆる弊害が極點に達してゐた。 かくの如き事態の通例として、高價格が輸出の減少と輸入の搗蛛Aすなはち、國際収支尻の逆調を招來した。 過剩な紙幣の大部分が證券類の購入目的に使用せられるや、證券相場は暴騰を演じ、外國投資家をして、ロシア市場にこれら證券類の大量的投賣りを惹起せしめた。 かうしたことに依って、留貨の為替相場の低落と、貴金屬の國外輸出を生ぜしめるに至った。 金屬貨幣 (銅貨までも) は流通場裡から姿を消した。 (アーサー・アーノルド、白濱篤之介 訳 『ソヴエト・ロシアの銀行・信用・貨幣』 慶應書房、昭和14年)
当時、целковый という語が銀貨だけでなく、1ルーブル紙幣 (国家信用券) の俗称としても使われていたという確証はないが、ソーニャが持ち帰ったのは 「30枚の1ルーブル紙幣」 と考えたほうが、「貨幣流通史」 的にはすっきりすると思うのだが ...。
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Значение
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* * * この 『罪と罰』 のロシア語テキストには、高利貸しの老女の 「言い草 (口癖)」 として、1ルーブル紙幣のことを билетик (お札) と言っているフレーズもある。 ラスコーリニコフが高利貸しの老女のところに父の形見の銀時計を持ち込んで、金を借りる場面 (第1冊 p.20)。 「前回の指輪には二ルーブルおつけしときましたがね、あれだって、宝石屋に行きゃ、新品が一ルーブル五十コペイカそこそこで買えるんだから」 (ロシア語原文: За колечко вам прошлый раз два билетика внесла, а оно и купить-то его новое у ювелира за полтора рубля можно. (第1冊 p.103) 「それに母さんにしたって、なんだってああも散財する? 財布にいくらかもって、ペテルブルグにお出ましってわけだ? 銀貨三枚もってか、それともあの・・・・・・ばあさんの言い草じゃないが、「お札」 二枚もってか・・・・・・ふうん!」 (ロシア語原文: Да и мамаша-то чего ж, однако, кутит? С чем она в Петербург-то явится? С тремя целковыми аль с двумя "билетиками", как говорит та... старуха... гм!
上掲の訳文で、билетик という単語を、「札びら」 とでも訳せば、целковый (ツェルコーヴィー) という語が1ルーブル紙幣のことであったとしても、それらしくなるのでは、と考える。
紙幣の相場 ところで、『罪と罰』 の舞台となった1860年代に流通していた紙幣 「国家信用券 Государственный кредитный билет」 の価値は、正貨である銀貨幣の60%ほどであった (この相場は時期によって異なる)。 国家信用券は、1843年から発行された紙幣で、1854年までは金貨または銀貨との兌換が保証されており、1844〜54年の間、正貨に対する国家信用券の価値は僅かに1.2%下落したに過ぎなかった。 しかし、クリミア戦争 Крымская война (1853〜56年) が始まると、1854年に兌換 (正貨支払) が停止された。 1853年には3億1140万ルーブルであった国家信用券の流通量は、1857年末には7億3530万ルーブルに膨張し、国家信用券の価値は従来の価値の65%に下落した。 オスマン帝国 (トルコ) との戦争が始まった1877年になると、戦費調達のため国家信用券の更なる増発によって、国家信用券の下落はますます激しく、国家信用券1ルーブルの価値は60銀コペイカにも満たない有様となった。 『罪と罰』 では、このような紙幣の正貨 (銀貨) に対する相場については触れられていないが、1846年に出版されたドストエフスキーの処女作 『貧しき人々 Бедные люди』 では、この問題が表立って出てくる。 * * * 『貧しき人々』 は、初老の小役人マカール・ジェーヴシキン Макар Алексеевич Девушкин と少女ワルワーラ・ドブロショーロワ (ワーレンカ) Варвара Алексеевна Добросёлова との間で凡そ半年に渡って交わされる往復書簡の形式をとった長編小説で、1840年代のペテルブルグに住む人々の恐るべき貧困生活を詳らかに描いている。 次のものが文庫本として邦訳出版されている。
『貧しき人々』 には、ものの値段を紙幣と銀貨で使い分けている箇所が散在しており、次の箇所には 「訳注」 が付けられている。
私たちのこの下宿では、いちばん安い部屋をかりたって、賄いつきとなりますと、お紙幣値段で三十五ルーブルはとられます。 私の財布では歯が立ちません!
ところが私のこの部屋に限り、紙幣勘定で七ルーブル、賄いが銀貨で五ルーブル、〆て二十四ルーブル五十コペックにしかつかないんだ。(注 ― 本来紙幣の一ルーブルも銀貨の一ルーブルも同じわけだが、帝政時代のロシヤでは、ずっと前から、銀貨の方が紙幣よりも、三倍半の流通価値をもっていたのである。以下同じ) 〔岩波文庫版 p.12〕
最初古本屋は、新本屋にあるのよりも高い値段をふっかけてきた。が、ずいぶん骨を折り、いくども帰りそうなそぶりを見せたりしたあげく、とうとう正銀でなら、十ルーブルにまけよう、というところまでこぎつけた。(注 ― 既述のごとく当時銀貨の一ルーブルは、紙幣一ルーブルの、三倍半の流通価値をもっていた) 〔岩波文庫版 p.80〕) ここで留意すべきは、1840年代が舞台となっている 『貧しき人々』 に登場する紙幣は、『罪と罰』 の1860年代に流通していた 「国家信用券」 ではなく、「アシグナーツィア紙幣 ассигнация」 である、ということである。 アシグナーツィア ассигнация とは、紙幣一般を意味する普通名詞ではなく、特定の紙幣を指す (紙幣の種類を特定する) 固有名詞である。 上掲の2箇所は、原文のロシア語テキストでは次のようになっている。 У нас здесь самая последняя комната, со столом, тридцать пять рублей ассигнациями стоит. Не по карману! А моя квартира стоит мне семь рублей ассигнациями, да стол пять целковых: вот двадцать четыре с полтиною. ここに出てくる пять целковых は、明らかに 「1ルーブル銀貨」 5枚を意味する (部屋代の7ルーブルと合わせて、紙幣換算で24ルーブル半)。 しかしこれは、「целковый という語が銀貨だけでなく、1ルーブル紙幣 (国家信用券) の俗称としても使われていた」 のでは、という 「仮説」 とは矛盾するものではない。 Сначала запросили дороже, чем в лавках; но потом, впрочем не без труда, уходя несколько раз, я довела купца до того, что он сбавил цену и ограничил свои требования только десятью рублями серебром.
従来より、ロシアの通貨は銀ルーブルが基本であったが、1839年7月1日の通貨改革によって、銀ルーブルが標準的貨幣単位 (1銀ルーブルの純銀分は4ゾロトニク21ドーリャ=17.996グラム) である旨が再度発布され、銀ルーブルとアシグナーツィア紙幣の間には一定かつ不変の関係 「1銀ルーブルはアシグナーツィア3ルーブル50コペイカに等しい」 が確立された。
そして、1843年7月1日に金貨または銀貨との兌換が保証された新しい型式の紙幣 「国家信用券 Государственный кредитный билет」 が発行され、アシグナーツィア紙幣は銀貨または国家信用券と交換された (アシグナーツィアは1849年に廃棄)。 ロシア語テキストには、次のような脚注が載っているものもある。 今日では一般のロシア人にとっても、やはり、注釈の要る事柄なのであろう。 ...тридцать пять рублей ассигнациями стоит. -- Ассигнации -- бумажные деньги, введенные в России в 1769 г. и замененные в 1843 г. кредитными билетами. В 1830-х годах один рубль ассигнациями равнялся по официальному курсу 27 коп. серебром. ドストエフスキーの時代前後における紙幣の相場について、年表形式で次にまとめてある。 アシグナーツィアや国家信用券などの紙幣については、次を参照されたい。
貨幣の呼称・俗称について ロシアでは、18世紀初頭のピョートル大帝による幣制改革以来今日まで、貨幣の単位として、ルーブル рубль とコペイカ копейка が用いられてきた。 1ルーブルは100コペイカに相当する。 それ以外にも、前掲のツェルコーヴィー целковый という語のように、 貨幣を言い表すのに、さまざまな呼称・俗称が使われており、ドストエフスキーの 『罪と罰』 の中にも散在する (もっとも、訳本では、読者の混乱を避けるためか、言い換えられている)。
(第1冊目 p.22) グリヴナ=10コペイカ銀貨 (ロシア語原文: коли по гривне в месяц с рубля, )
(第1冊目 p.50) ポルチーナ=半ルーブル (50コペイカ) 銀貨 (ロシア語原文: Сапоги, манишки коленкоровые - великолепнейшие, вицмундир, всё за одиннадцать с полтиной состряпали в превосходнейшем виде-с. ) これらについては、次を参照されたい。
はじめに /
ピョートル大帝の幣制改革 /
18世紀の貨幣流通 / |