ロシアの通貨
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1917年の十月革命勃発以降、ソヴェト体制の崩壊を経て現在に至る、ロシア通貨の変遷を、年表形式で概観する。
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十月革命の勃発から、戦時共産主義、新経済政策 (ネップ) のもとでの通貨改革、ソヴェト連邦の成立までの通貨事情を概観する。
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新経済政策 (ネップ) 後のスターリンによる社会主義的工業化から、ソヴェト体制崩壊までの時代の通貨事情を概観する。
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ソヴェト体制崩壊後の混乱の時代を経て、V.V.プーチンによる 「強い国家」 再建に至る 、ロシアの市場経済化 (資本主義化) の時代の通貨事情を概観する。
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「市場経済国」 ロシアの今日に至る通貨政策を概観する。
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ロシア通貨の変遷
革命と内戦の時代 / ソヴェト連邦の成立
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1917年10月25日 |
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十月革命。 |
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1917年11月7日 |
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赤衛軍武装部隊が国立銀行を占拠する。
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1917年12月1日 |
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最高国民経済会議 Высший Совет Народного Хозяйства (В.С.Н.Х.) が創設され、国民経済の国家統制が始まる。
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1917年12月14日 |
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「銀行の国有化」 が布告される (全ロシア中央執行委員会法令)。 「銀行の国有化とは、銀行の資産を没収することでもなければ、また銀行に預けられている私有財産を没収することでもなかった。 それはただ銀行とその活動にたいする実質的統制を樹立するための方策として意図されたにすぎない。」 (アレクサンダー M. バイコフ 『ソヴェート同盟の経済制度 (上巻)』(p.39)、 野々村一雄・岡稔 共訳、1954.8、東洋経済新報社) 国有化された全ての私営商業銀行は国立銀行に統合され、単一の、ロシア共和国の人民の銀行 единый народный банк Российской Республики になる。
1918年1月末から 「ロシア共和国人民銀行 Народный банк Российской Республики 」 の名称が使われ、その後 「ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国人民銀行 Народный банк РСФСР 」 となる。
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1918年1月10日 |
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第三回全ロシア・ソヴェト大会 (〜18(31)) で、「ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国 Российская Социалистическая Федеративная Советская Республика 」 が成立する。
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1919年2月4日 |
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額面1、2、3ルーブルの1919年様式ソヴェト共和国計算票 Расчётный знак РСФСР (モトィリキ Мотыльки : 「小さな蝶」 の意 ) の発行が公布される。 |
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1919年5月15日 |
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銀行券の発行に関する一切の形式的制限を廃止。 これによって、国民経済が現実的に通貨を必要とする限度内において、すなわち無制限に、紙幣を発行できるようになる。
額面1〜1,000ルーブルの 1918年様式国家信用券 Государственный кредитный билет (ピャタコフキ Пятаковки ) の発行が規定される。 |
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1919年10月21日 |
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額面15、30、60ルーブルの1919年様式ソヴェト共和国計算票 (ソヴズナク Совзнак ) の発行が規定される。
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1920年3月4日 |
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額面100ルーブル以上の1919年様式ソヴェト共和国計算票 の発行が規定される。
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1921年2月22日 |
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国家計画委員会 (ゴスプラン) Государственная Плановая Комиссия (Госплан) が設立される。
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1921年3月10日 |
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ロシア共産党第十回大会 (〜16日) で、余剰農産物の徴発制度の廃止が採択され、「新経済政策 (ネップ) Новая экономическая политика (Нэп)」 が開始される。
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1921年6月16日 |
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額面100〜10,000ルーブルの1921年様式ソヴェト共和国計算票 の発行が規定される。 |
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1921年10月 |
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ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国国立銀行定款が発表され、国立銀行の活動が再開される。
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1921年11月3日 |
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1922年様式国家紙幣 Государственный денежный знак の発行が規定され、第一回目の平価切下 (デノミネーション) が実施される。
旧来の紙幣1万ルーブルは新紙幣1ルーブルとして通用するものとされる。
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1922年10月11日 |
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1922年様式国立銀行券 Банковый билет (チェルヴォネツ紙幣) の発行が規定される。 |
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1ゾロトニク=96ドーリャ=4.266グラム、1ドーリャ=0.0444349グラム。
従って、1チェルヴォネツに含まれる純金量は 7.74234グラムとなる (帝政時代の10金ルーブルと等価)。 |
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1922年10月24日 |
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1923年様式国家紙幣 の発行が規定され、第二回目の平価切下が行われる。
1922年様式国家紙幣100ルーブル (従って、それ以前の紙幣では100万ルーブル) は1923年様式国家紙幣1ルーブルに相当するものとされる。
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1922年10月26日 |
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チェルヴォネツ金貨の製造 Чеканка золотых червонцев に着手することが決定される。
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1922年12月7日 |
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1922年様式印紙型紙幣 の発行が規定される。
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ソヴェト連邦の成立 |
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1923年7月6日 |
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「合同条約」 により、ソヴェト社会主義共和国連邦が正式に成立する。
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ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国国立銀行は、ソヴェト社会主義共和国連邦国立銀行 (ソ連ゴスバンク) となる。
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1923年7月27日 |
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労働国防会議は、額面 (公定相場による) 5金ルーブルの 1923年様式運輸証券 Транспортный сертификат の発行を決定する。
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1923年11月5日 |
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ソヴェト社会主義共和国連邦様式の額面10,000ルーブルの 1923年様式国家紙幣 の発行が規定される。 |
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1924年1月21日 |
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V.I. レーニン Владимир Ильич Ленин, 1870.4.22(4.10)-1924.1.21) 死去する。
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1924年2月5日 |
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「新しい国庫紙幣の発行に関する法令」 を発布し、
財務人民委員部(財務省)は 1924年様式国庫紙幣 Государственный казначейский билет СССР (額面1、3、5金ルーブル) の発行を規定する。
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1924年2月7日 |
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国立銀行は新国庫紙幣受領の宣言を行ない、1チェルヴォネツは 10金ルーブルに相当するものとして何等の制限もなく国庫紙幣を受領し、また自由に同率でチェルヴォネツと国庫紙幣とを交換することになる。
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1924年2月14日 |
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「ソヴェト紙幣の印刷の停止」 の法令を発布し、 2月15日以降、ソヴェト紙幣 (ソヴズナク Совзнак )の印刷および財務人民委員部 (財務省) の保有しているものの発行を禁止する。 |
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1924年2月22日 |
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ソヴェト連邦様式の銀貨および銅貨 の発行が規定される。 そして、これらの金属貨幣が流通に十分な量まで準備される間の暫定的処置として、後日銀貨および銅貨と引き換えられるべき 1924年様式中央金庫小額支払証券 Платежные обязательства Центральной кассы Наркомфина СССР の発行が規定される。
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1924年3月22日 |
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「ソヴェト紙幣の法貨としての期間に関する法令」 を発布し、
1924年5月10日までは1金ルーブルに対して1923年様式のソヴェト紙幣 (ソヴズナク Совзнак )5万ルーブルの公定比率で法貨として通用し、同年5月31日まで財務人民委員部および国立銀行で交換されることになる。
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新経済政策 (ネップ) のもとでの通貨改革によって実施された平価切下率は 500億となったことになる。 |
社会主義的工業化の時代
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1924年1月21日にV.I.レーニン Владимир Ильич Ленин, 1870.4.22(4.10)-1924.1.21 が死去した後、党内反対派を蹴落としながら権力を掌握していったI.V.スターリン Иосиф Виссарионович (Джугашвили) Сталин, 1879-1853 は、工業化論争と呼ばれるソ連経済の発展戦略をめぐる論争に勝ち、ソヴェト連邦は農業を犠牲とした急速な社会主義的工業化の道を進み始めることになる。
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1925年10月1日 |
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国庫 (Приходо-расходнные кассы) の一切の資金が国立銀行に移管される。
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1926年3月 |
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私人に対する金および金貨幣の売却が打ち切られ、ソヴェト貨幣は換金できなくなる。
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1926年7月 |
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チェルヴォネツ、国庫証券および金属貨幣の輸出が禁止される。
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1927年8月 |
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ルーブルの国外持ち出しを禁止し、国外のルーブルの無効を宣言し、その輸入を厳禁する。
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1928年3月 |
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チェルヴォネツ、国庫証券および金属貨幣の輸入も禁止される。
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チェルヴォネツは純粋の国内通貨となり、その為替相場は国立銀行の為替相場委員会によって米ドルに対する平価 (1米ドル=1.943ルーブル) に従って定められ、他の通貨に対してはそのドル相場に従って定められる。
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1928年10月1日 |
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第一次五カ年計画 (1928〜32年) に着手する。
党と政府の実権を掌握したI.V.スターリン Иосиф Виссарионович (Джугашвили) Сталин, 1879-1853 は、新経済政策 (ネップ) を改めて、重工業に重点をおく工業化と農業の集団化を推し進める。 |
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1935年11月4日 |
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ルーブルの為替相場をフランス・フラン基準とし、1ルーブル=3フランス・フランに設定する。
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1936年4月 |
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平価切下げを声明し、金1グラムを5ルーブル6807 (1ルーブルは金0.17603グラム) に改める。
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1936年10月29日 |
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フランス・フランの切り下げにより、ルーブルの為替相場を1ルーブル=4.25フランス・フランに変更する。
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1937年7月19日 |
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ルーブルの為替相場をフランス・フラン基準から米ドル基準に変更し、1米ドル=5.30ルーブルに決定する。
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1941年6月22日 |
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独ソ戦 (大祖国戦争) 開始。
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1945年5月7日 |
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ドイツの無条件降伏。 |
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1946年2月 |
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第二次大戦終結後の国民経済復活のため、第四次五カ年計画 (1946〜50) に着手する。
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1947年12月14日 |
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「貨幣改革の実施と食糧・工業商品の切符制の撤廃に関する」 決定が採決される。 Постановление Совмина СССР, ЦК ВКП(б) от 14 декабря 1947 г. 4004 "О проведении денежной реформы и отмене карточек на продовольственные и промышленные товары" 第二次大戦 (大祖国戦争) による通貨の余剰流通を解消させて通貨安定を図るため、1947年様式国立銀行券および国庫紙幣が発行され、10分の1のデノミネーションが実施される (1947年の貨幣改革)。 国立銀行券は通貨単位の名称がチェルヴォネツからルーブルに変更され (1チェルヴォネツ=10ルーブル)、 10、25、50、100ルーブルの額面で発行され、国庫紙幣は1、3、5ルーブルの額面で発行された。
現金通貨は一律10対1の割合で交換され、額面10ルーブルまでの小額紙幣はそのままの額面で通用し、個人の預貯金については3,000ルーブルまでは1対1、3,000〜1万ルーブルは3対2、1万ルーブル以上は2対1の割合で、また公債は額面3対1の割合で決済されることになった。
公定為替レートは従来と同じく1米ドル=5.3ルーブルのままで据え置かれることになった。 |
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1947年12月16日 |
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食糧・工業商品の切符制が撤廃され、単一の小売価格が導入される。
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1950年3月1日 |
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1950年2月28日付のソヴェト連邦閣僚会議の決定により、ルーブルの為替相場の決定は、1937年以降続いたドル基準から金基準に変わり、ルーブルの金含有量は0.222168グラムと定められる。 |
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1961年1月1日 |
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通貨改革によって、1961年様式の国庫紙幣 (額面1、3、5ルーブル) および国立銀行券 (額面10、25、50、100ルーブル) を発行し、10分の1のデノミネーションを行う。
従来の価格尺度では実現された経済規模に対応しなくなり、通貨単位を大型化させる必要があったため、新しい価格尺度が採用され、流通中の旧紙幣は10対1の割合で新紙幣と交換された。
ルーブルの金含有量は純金0.222168グラムから0.987412グラムに変更され、ルーブルの対ドル相場は1米ドル=4ルーブルから0.9ルーブルに引き上げられた。
(10分の1のデノミネーションによって、本来であれば1米ドル=0.4ルーブルとなるはずが0.9ルーブルになったのは、実質的にはルーブルは切り下げられたというべきであるとする説もある。) |
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1971年8月15日 |
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アメリカ合衆国がドルと金との交換停止を宣言する (ニクソン・ショック)。
第二次大戦末期の1944年7月にアメリカ合衆国ニューハンプシャー州北部のブレトンウッズで開かれた連合国通貨金融会議 (45ヵ国参加) で締結され1945年に発効した国際金融機構についての協定 (Bretton Woods Agreements) で、金1オンス Troy Ounce (31.1034768グラム) を35米ドルと定め (1米ドルは金0.888671グラム)、そのドルに対して各国通貨の交換比率を定めた (アメリカ合衆国は、他国の通貨当局から要求があった場合には、いつでも金とドルの交換に応じる義務を負った)。
この固定相場制のもとで、日本円は1ドル=360円に固定された。
このとき、為替相場を安定させて自由貿易を発展させるために、国際通貨体制を支える機関として国際通貨基金 (IMF:International Monetary Fund) と国際復興開発銀行 (IBRD:International Bank for Reconstruction and Development、世界銀行) が創設された。 |
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1971年12月 |
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ルーブルの対ドル相場が1米ドル=0.9ルーブルから1米ドル=0.829ルーブルに変更される。
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1973年2月 |
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ルーブルの対ドル相場が1米ドル=0.7692ルーブルに変更される。
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1985年3月11日 |
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M.S.ゴルバチョフ Михаил Сергеевич Горбачёв, 1931- が共産党書記長になり、人事刷新と言論の初歩的自由化を開始する。
M.S.ゴルバチョフは、1990年3月15日にソヴェト連邦の初代大統領に就任するが、1991年12月25日に辞任する。
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1990年6月12日 |
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ソヴェト連邦体制内で機能が形骸化していたロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国の最高会議議長に1990年5月に就任したB.N.エリツィン Борис Николаевич Ельцин, 1931-2007 は、ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国をロシア共和国と改称して国家主権宣言を行う。
エリツィンは、翌1991年6月12日に行われるロシア共和国大統領選挙で当選し、同年7月にロシア共和国大統領に就任する。
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1990年7月13日 |
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ロシア中央銀行 Центральный банк Российской Федерации (Банк России) が設立される。
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1990年12月2日 |
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「ロシア中央銀行法」 で、ルーブルはロシアの公式貨幣単位であると規定される。
"Статья 27. Официальной денежной единицей (валютой) Российской Федерации является рубль. Один рубль состоит из 100 копеек." |
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1990年12月11日 |
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「ソヴェト連邦国立銀行に関する」 法律 (ソ連ゴスバンク法) が採決され、そのなかで、ルーブルの金含有量は定めないことが正式に記される。
"Официальное соотношение между рублем и золотом или другими драгоценными металлами не устанавливается." |
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1991年1月22日 |
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ソヴェト連邦大統領令 「1961年様式の額面50および100ルーブル国立銀行券の支払受納停止と市民の預金からの現金引出し制限について」 が公布される。 Указ Президента СССР от 22 января 1991 г. уп-1329 "О прекращении приема к платежу денежных знаков госбанка СССР достоинством 50 и 100 рублей образца 1961 года и ограничении выдачи наличных денег со вкладов граждан"
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硬貨は、10、5、1ルーブル、50、10コペイカの5額面 (左:表面、右:裏面) |
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1991年9月27日 |
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ソヴェト連邦の金保有量が240トンに激減したことを公表する。 ソヴェト連邦は保有する金を過去1年間に大量に売却したため、現在の金保有量は年間の金産出高にほぼ等しい約240トンしかなく、外貨保有高も激減した。
国民経済管理委員会のヤブリンスキー Григорий Алексеевич Явлинский, 1952- 副議長は27日の国営テレビで、「この1年間で、金保有高の三分の二に当る量を減らし、外貨も失った」 と述べ、クーデター事件で逮捕されたパブロフ Валентин Сергеевич Павлов, 1937-2003 前首相らの経済政策を批判した。
ソヴェト連邦の金保有量は長い間、極秘扱いされてきたが、1991年7月に、当時のソヴェト連邦政府機関紙イズヴェスチヤが、初めて374トンと発表した。 今回の副議長の数字は、これを130トンも下回った。
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1991年11月22日 |
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ルーブル通貨の発行機関がソヴェト連邦 (ソ連ゴスバンク) からロシア共和国 (ロシア中央銀行) に移管される。
Постановление Верховного Совета РСФСР от 22 Ноября 1991 г. 1917-1 |
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1991年12月8日 |
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ソヴェト連邦の消滅と独立国家共同体 Содружество Независимых Государств:СНГ (英語では Commonwealth of Independent States:CIS) の創立が、ボリス・エリツィン大統領 (ロシア)、レオニード・クラフチュク大統領 (ウクライナ)、スタニスラフ・シュシケヴィチ最高会議議長 (ベラルーシ) によって宣言される (ベロヴェーシ合意 Беловежские соглашения)。
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1991年12月25日 |
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M.S.ゴルバチョフ Михаил Сергеевич Горбачёв, 1931- がソヴェト連邦の大統領を辞任する。 |
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1992年様式ロシア中央銀行券 (5000ルーブル)
1992年様式ロシア中央銀行券 (1万ルーブル)
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ロシア通貨の変遷
市場経済化の時代
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1991年11月に企業の対外経済活動の自由化が発表され (1991年10月28日のロシア人民代議員大会におけるエリツィン演説、および同年11月15日のロシア共和国大統領令)、翌92年1月には一部生活必需品などを除き価格の自由化が実施されて、ロシアは 「市場経済」 に向けた急進的な経済改革を開始した。 (国有・公有企業の民営化の経過については è 主な民営化関連法規 )
「ロシア共和国」 の国名は、1991年12月25日 (ゴルバチョフ・ソヴェト連邦大統領辞任の当日) にロシア最高会議決議により 「ロシア連邦」 と変更され、1992年3月のロシア連邦条約 Федеративный договор によって最終確定される。
ソヴェト連邦解体後のロシア経済は、IMFの強力な勧告に従って遂行された不適切な経済政策 (ショック療法) によって、極度に混乱した。
緊縮政策は投資を減退させ、企業の生産活動を停滞させて、1992〜1996年の5年間は連続のマイナス成長を記録し、ルーブルの価値は下落し続けた。
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主要経済指標の推移
1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 実質GDP成長率 (%) -14.5 -8.7 -12.7 -4.1 -3.5 0.8 消費者物価指数上昇率 (%) 2,510.0 840.0 215.0 131.0 21.8 11.0 鉱工業生産指数上昇率 (%) -18.0 -14.1 -20.9 -3.3 -4.0 1.9 農業生産指数上昇率 (%) -9.4 -4.4 -12.0 -8.0 -5.1 0.1 設備投資額上昇率 (%) -40.0 -12.0 -24.0 -10.0 -18.1 -5.5 失業率 (%) 4.8 5.6 7.4 8.5 9.6 10.8 外貨準備 (年末・億ドル) 45 89 65 172 151 178 為替 (年末・ルーブル/1ドル) 414.5 1,247 3,550 4,640 5,560 5,960 |
1992年1月 |
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経済担当副首相エゴールT.ガイダル Егор Тимурович Гайдар, 1956-2009、価格自由化 (価格統制の撤廃) 政策を断行 (ショック療法)。
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1992年6月1日 |
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ロシアがIMF (国際通貨基金) に加盟する。
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1992年6月11日 |
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最高会議で 「1992年度のロシア連邦における国有・公有企業の民営化プログラム」 が承認される。 Государственная программа приватизации государственных и муниципальных предприятий в Российской Федерации на 1992 год すでにソヴェト連邦が消滅する前の1991年7月3日に、ロシア連邦はエリツィン大統領のもとで、「ロシア連邦における国有・公有企業の民営化」 についての法律を制定しており、同年12月29日には 「1992年度のロシア連邦における国有・公有企業の民営化プログラムの基本的論点」 に関する大統領令が出されていた。 Закон РФ от 3 июля 1991 г. 1531-I "О приватизации государственных и муниципальных предприятий в РФ" Указ No.341 Президента "Основные положения программы приватизации государственных и муниципальных предприятий в Российской Федерации в 1992 г."
翌92年6月11日にはこれに修正を加えた 「民営化プログラム」 が最高会議で承認され、実施に移されたが、
民営化の第一段階として、地位や所得に関わりなく全ロシア国民の一人一人に対して一定額を、民営化される企業の株式を取得する権利書として無償で交付することが決まり、10月1日から額面10,000ルーブルの民営化小切手 (ヴァウチャー) Приватизационный чек (Ваучер) の配布が開始される。 |
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1992年7月1日 |
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ルーブルが市場の実勢相場を反映した単一為替相場として公表されるようになる (1米ドル=125ルーブルで開始)。
1992年初頭に価格自由化を始めるやいなや価格は急上昇を開始し、この年の末までに消費者物価は25.1倍にはね上がり、ルーブルの購買力の急低下にともなってルーブルの対ドル相場は、1月の1米ドル=100 ルーブルから年末には415ルーブルに下がった。
消費者物価の値上がりと比べるとルーブル相場の下落は小幅にとどまっていたが、これは、激しいインフレを抑制するために、ロシア政府がルーブル相場を高めに維持する政策をとったためである。
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1992年10月1日 |
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国有・公有企業の民営化の第一段階として、額面10,000ルーブルの民営化小切手 (ヴァウチャー) Приватизационный чек (Ваучер) の配布が開始される。
民営化小切手発行当時の10,000ルーブルは1992年の平均所得の2.5か月分に相当し、約32米ドル。
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民営化小切手は、国民がそれで民営化対象企業の株式を購入することによって民営化を促進するというものであった。 しかし、国有資産を全国民に均等に分配して 「国民総株主化」 を意図した小切手による民営化であったが、現実には、国民のうち小切手を個人で直接株式に交換した者は18%、民営化基金 (投資基金あるいは投資信託) に預託した者は28%にすぎず、他人に売却して現金化したり譲渡した者が42%であったという。 このことは、国民全部に大きな損失を与える反面、民営化される国有資産を取得できる立場の特権階級 (ノーメンクラトゥーラ) や、国民が手放す小切手を集めることのできる銀行や個人を一挙に大富豪にすることになった。 当初は1年 (1993年12月31日まで) であった小切手の有効期限は、1993年10月6日付大統領令により半年間延期されて1994年7月1日までとされ、さらに未使用の小切手約400万枚は、9月1日から同30日までの1か月間有効とされた (モスクワでは、小切手の有効期限は1995年2月1日まで延長された)。 |
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1993年7月26日 |
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旧ソヴェト連邦で発行された全紙幣および1992年までにロシアで発行された紙幣の流通が数日間の猶予のみで禁止される。 (ソヴェト貨幣の終焉)
1993年7月24日、1992年様式以前の全ての紙幣を7月26日から廃止することが発表された。
8月7日までは、ロシア国民は1人あたり35,000ルーブルまで、外国人は1人あたり15,000ルーブルまで新紙幣と交換でき、交換限度を超える旧紙幣は銀行口座に預金することができるるが、半年間は引き出せないとされた。
これに対して世論の反発や政府内部、議会からも反対が出たため、26日の大統領令によって、ロシア国民の交換限度は10万ルーブルに引き上げられ、交換期限は8月末まで延長さることになった。
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1993年様式ロシア中央銀行券 (100ルーブル)
1993年様式ロシア中央銀行券 (5000ルーブル)
1993年様式ロシア中央銀行券 (1万ルーブル)
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1994年7月 |
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国有資産民営化の第二段階 (貨幣による株式の直接購入) がはじまる。
民営化小切手の有効期限が1994年6月末をもって終了したことに伴い、「貨幣による民営化」 という新しい段階へ移行することになった。
7月4日に民営化第二段階計画案が連邦議会と大統領に提出されたが、連邦議会 (下院) は二度にわたってこれを否決した。
しかし、民営化を急ぐエリツィン大統領は民営化第二段階を推進する決断をし、7月22日に大統領令に署名した。
この 「貨幣による民営化」 によって、国民の3〜5%を占める富裕層がさらに富を蓄積し続けることになり、貧富の格差が拡大した。
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1994年7月 |
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信託投資会社 「MMM」 社 (1989年設立) の取り付け騒ぎが発生。
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S.P.マヴローヂの肖像の入った株式引換券 |
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1994年10月11日 |
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ルーブル暴落 (暗黒の火曜日)。
1993年9月下旬にルーブルは1週間で28%もの暴落を記録したが、その後、ロシア政府は金利を高くして資金をロシアに引き寄せる一方、ルーブル相場が下がりそうになると中央銀行によるルーブル買い (ドル売り) 介入を行うことで、ルーブル相場は翌1994年の秋まで維持されていた。
しかし、1993年に45億ドルあったロシアの外貨準備は10月11日には18億ドルにまで急減し、ロシア中央銀行によるドル売りを中止せざるをえなくなった。
ロシア中央銀行からのドル売りの支援が断たれるとルーブルは急落し、10月10日の1米ドル=3,081ルーブルが翌11日 (暗黒の火曜日) には3,929ルーブルへと、27.5%の大暴落となった。
(ちなみに、1994年1月初旬のルーブル相場は1米ドル=1,259ルーブルであった。)
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1995年7月6日 |
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ルーブルの為替相場にコリドール制 (為替目標相場圏制) を導入する。 ロシア政府は、為替安定を確実なものとする目的で、ルーブルの固定を目指し、その準備段階の第一歩としてコリドール制 (為替目標相場圏制) を導入した。 コリドール制とは、ルーブル相場の上限と下限を決め、狭い範囲に相場の変動を止めようとする方策で、1995年7月6日から10月1日 (後に11 月30日に変更) までの期間、ルーブル相場を1米ドル=4,300ルーブルから4,900ルーブルの間に止めるとロシア政府は発表した。
その後、当初の目標では、1995年10月1日にルーブルを固定する予定だったが、10月になってもルーブルの固定は実施されず、1米ドル=4,300ルーブルから4,900ルーブルのレンジは11月30 日まで延長された。
さらに、1995年12月1日からは、インフレ率に見合ってルーブル相場を漸進的に引下げ、1米ドル=4,550ルーブルから5,150ルーブル、1996年7月1日から12月31日は1米ドル=5,000ルーブルから5,600ルーブルという目標相場圏に移行した。
ルーブル固定は、1998年まで持ち越された。
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1996年6月1日 |
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ロシアがIMF協定第8条の義務を受諾することを宣言する。
IMF協定第8条では、経常取引における支払に対する制限の回避、差別的通貨措置の回避、他国保有の自国通貨残高の交換性維持を規定している。
ロシアがIMF8条国へ移行したことで、ルーブル完全交換性へ。 |
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1997年初頭より原油価格が下落し始め、輸出原油からもたらされる税収が減少したロシアの国家財政はさらに悪化してきた。 また、1997年夏に発生したアジア通貨危機の余波は、1998年にはロシアにも及び、ロシアは財政危機・経済危機に陥った。 しかし、1999年初頭には下落が続いていた原油価格が反転上昇し始め、それに伴ってロシア経済は順調に回復してきた。 原油価格の高騰とルーブル切下げによる国内産業の復調、さらには2000年に大統領に就任したプーチン政権によって実行された様々な経済改革によって、ロシア経済は順調に回復した。
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主要経済指標の推移
1998年 1999年 2000年 2001年 2002年 実質GDP成長率 (%) -5.3 6.4 10.0 5.1 4.7 消費者物価指数上昇率 (%) 84.4 36.5 20.2 18.6 15.1 鉱工業生産指数上昇率 (%) -5.2 11.0 11.9 4.9 3.7 農業生産指数上昇率 (%) -12.3 2.4 7.7 7.5 1.7 設備投資額上昇率 (%) -12.0 5.3 17.4 10.0 2.8 失業率 (%) 11.9 13.0 10.5 9.0 8.0 外貨準備 (年末・億ドル) 122 125 280 366 478 為替 (年末・ルーブル/1ドル) 20.65 27.00 28.16 30.14 30.78 |
Источники: Росстат, Минфин, Банк России, расчеты ИКСИ/Госкомстат, ЦБР, АЛ "Веди"/и др.
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1997年3月17日 |
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50万ルーブル紙幣を発行する。 1992年1月の価格自由化以降、インフレが進んだため、高額紙幣が相次いで発行されてきたが、これまでの最高額紙幣である10万ルーブル紙幣を上回る50万ルーブル紙幣が発行されることになった。 50万ルーブルといっても、円換算すると、わずか1万750円程度 (当時) で、平均月収の6割ほどであるという。
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1998年1月1日 |
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1000分の1のデノミネーションを実施する。 1998年中は新通貨と旧通貨が併用され、商業施設には商品の値段を旧ルーブルと新ルーブルで明示することが義務付けられた。 1999年1月から新通貨に一本化されるが、中央銀行は2002年まで旧ルーブルを新ルーブルに交換することに応じた。
このデノミネーションによって、ルーブル相場は1米ドル=6.2ルーブルとなり、これを中心として変動を上下15%の範囲にとどめるという固定制となった。
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1997年様式ロシア中央銀行券 (10ルーブル)/2001年修正版 |
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1998年8月17日 |
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事実上のルーブル切下げと民間対外債務支払の90日間凍結 (モラトリアム) を発表する。
1990年代は、国庫への歳入が極端に少なく国家予算は恒常的な赤字であった。
この赤字を補填するために短期国債の発行とIMFからの借り入れを行なったが、それらはルーブルの下支えにも使われた。
しかし、1997年末には、国際石油価格が10〜12ドルまで下落し、そのため現行の借入れ金に対するIMFが設定した金利を返済することすら不可能になった。
短期国債の発行については、次の国債発行によって前の債務を償還するという古典的な金融ピラミッド (金融ネズミ講) 状態に陥った。
その結果、1998年8月17日に、政府は、もはや借金を返済しルーブルを以前のレートまで支えることは不可能であることを認めた。
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1998年9月9日 |
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コリドール制 (為替目標相場圏制) を廃止し、変動相場制へ移行する。
1997年7月よりタイを中心に始まったアジア各国の急激な通貨下落 (アジア通貨危機) の影響は翌1998年にはロシアにも波及した。
8月17日にロシア政府とロシア中央銀行は危機対策として、対外債務を90日間支払い停止すると発表し、同時に債務を整理して、ルーブル相場の下限を7.15ルーブルから9.5ルーブルへと32.8%切下げる措置をとることにした。
しかし、これによってもルーブル売りの勢いは衰えず、ロシアの通貨当局は、外貨準備を使ってドル売り・ルーブル買いで対抗したが、ロシア政府は9.5 ルーブルという下限を持ちこたえることができなくなり、9月9日に目標相場圏廃止のやむなきにいたった。
この日からルーブルは変動相場制に移行した。
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1999年7月 |
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金融機関再建法が発効。 金融機関再建庁が国家機関として発足する。 Агентство по реструктуризации кредитных организаций : АРКО (Agency for Restructuring Credit Organizations : ARCO )
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2000年5月2日 |
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2000年3月26日に実施されたロシア連邦大統領選挙でV.V.プーチン Владимир Владимирович Путин, 1952- が当選し、5月2日に第二代大統領に就任する。
プーチン大統領は 「強い国家」 の建設を掲げ、市場経済を支える法制の斉一化、議会勢力および地方勢力の掌握 (大統領による連邦構成主体の首長の事実上の任免等)、反政権の新興財閥の解体、マスコミの統制等を行い、中央集権化を図った。
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2000年8月5日 |
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付加価値税、物品税、個人所得税、統一社会税の4つの税を定めた 「ロシア連邦税法典第二部」 が採択され、2001年1月1日から施行されることになる。 Федеральный Закон РФ от 05 августа 2000 г. 117-ФЗ "Налоговый кодекс Российской Федерации. Часть вторая"
個人所得税は累進課税 (12%、20%、30%) であったものを、一律13%に固定した 「単一税率所得税制」 に変えたことにより、税務執行の厳格化と相まって国民の間に税務申告を選好する空気が生まれた。
この個人所得税の単一税率導入は、申告所得を増大させ (改革の翌年には税収が過年度比で25%増加)、信用経済の成長、中産階級の増加、消費の増大による経済成長と所得格差の縮小を促すことになったという。 |
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2002年6月6日 |
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アメリカ合衆国がロシアを市場経済国 (資本主義国) に認定する。 |
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ロシア通貨の変遷
その後 ...
90年代はマイナス成長が続いていた実質GDP (国内総生産) 成長率は、急激な原油価格高騰の恩恵を受けて2003年以降はプラス成長が続き、2007年には8.1%を記録した。
また、1999年末には125億ドルであった金・外貨準備高は2007年1月には3,000億ドル、同年8月末には4,160億ドル (50兆円弱) を超え、ソヴェト連邦の時代に抱えた対外債務についても、既に2006年に解消して、ロシアは債務国から債権国に転じた。
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主要経済指標の推移 |
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2003年 |
2004年 |
2005年 |
2006年 |
2007年 |
2008年 |
実質GDP成長率 (%) |
7.3 |
7.2 |
6.4 |
6.7 |
8.1 |
5.6 |
消費者物価指数上昇率 (%) |
12.0 |
11.7 |
10.9 |
9.0 |
11.9 |
13.3 |
鉱工業生産指数上昇率 (%) |
8.9 |
8.0 |
5.1 |
6.3 |
6.8 |
0.6 |
農業生産指数上昇率 (%) |
1.3 |
3.0 |
2.3 |
3.6 |
3.3 |
10.8 |
設備投資額上昇率 (%) |
13.7 |
10.9 |
10.9 |
16.7 |
22.7 |
9.9 |
失業率 (%) |
8.6 |
8.2 |
7.6 |
7.2 |
6.1 |
6.4 |
外貨準備 (年末・億ドル) |
769 |
1,245 |
1,822 |
3,037 |
4,788 |
4,271 |
為替 (年末・ルーブル/ドル) |
29.45 |
27.75 |
28.78 |
26.33 |
24.55 |
29.38 |
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2004年1月1日 |
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「ロシア連邦安定化基金 Стабилизационный фонд Российской Федерации 」 が制定される。
2003年12月23日付連邦法第184号により、予算法典に第13章−1 「ロシア連邦安定化基金」 が挿入され、2004年1月1日から施行された。
「安定化基金」 は、原油価格が低落したときの歳入減少に対処するために設けられたものであり、原油の国際市場価格 (ウラル原油価格) が基準価格を超えた場合に、基準価格を上回る部分に対応する輸出関税と採掘税の連邦予算の増収分がこの安定化基金に繰入れられるとされた。
基準価格は、当初は1バレル=20ドルとされたが、2006年1月から1バレル=27ドルに引き上げられた。
「安定化基金」 は、当初はルーブルで貯えられていた (ルーブル建て) が、2006年4月21日付政府決定第229号により、資金の管理について次の2つが可能となった。 |
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2005年2月1日 |
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ルーブルの為替制度に、ドルとユーロの2通貨で構成する通貨バスケット制を導入する。
通貨バスケット制とは自国の通貨を複数の外貨に連動したレートにする固定相場制のことで、
2002年〜2004年の急激なドル安・ユーロ高の進行によって、米ドルに連動する為替システムのもとではルーブルがユーロに対して下落し、貿易面でマイナスの影響を及ぼしていることから、
ドルとユーロで構成する通貨バスケットを指標にしてルーブルの相場を管理する制度に移行した。
通貨バスケット制導入当初の2005年2月1日における通貨バスケットの構成比は、ドルが90%、ユーロが10%であったが、2005年3月15日にはユーロの割合を20%に引き上げ、その後もユーロの割合を漸次増率し、2007年2月13日にはドル60%、ユーロ40%から、ドル55%、ユーロ45%に変更した。
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2005年7月20日 |
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ロシア連邦通貨 (ルーブル) の個人の国外持込および持出についての規制が変更される。 従来の 「通貨規制および通貨管理に関する連邦法」 (通貨規制法) では、個人が外国通貨 (外貨) を国外持込および持出する場合はロシア連邦関税法令に定められた手続きに従うこととされていた (第15条) が、ロシア連邦通貨 (ルーブル) の国外持出および持込は実質禁止されていた。 Федеральный закон Российской Федерации 173-ФЗ от 10 декабря 2003 г. "О валютном регулировании и валютном контроле"
2005年7月18日付で通貨規制法が改正 (7月20日に公示) されたことによって、ロシア連邦通貨 (ルーブル) についても制限つきながら解禁され、外国通貨と同様な取り扱いとなった。
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2006年6月16日 |
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パリクラブ (主要債権国会議) Club de Paris; Парижский клуб の会合において、ロシア政府とパリクラブ債権国との間でロシア債務繰り延べに関して期限前償還 (プリペイメント) が合意される。
2006年8月、対パリクラブ債務 (約220億米ドル) の繰り上げを完済。 これにより、ロシアは純然たるパリクラブ債権国となる。
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2006年7月1日 |
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ロシア連邦通貨 (ルーブル) の国外での流通規制が撤廃される。 (ルーブル為替の自由化)
「通貨規制および通貨管理に関する連邦法」 の2004年6月の改定では、2007年1月まで流通規制が行われる予定であったが、
2006年7月15日からサンクトペテルブルクで開かれるG8サミットを前にして、6月の議会で通貨の自由化政策が採択され、流通規制が撤廃されることになった。
これによって、ロシア国外の金融機関でルーブルと現地通貨を交換する完全交換制度に移行した。
また同時に、ロシア国内の証券投資に義務付けられていた預託義務の撤廃、ロシアから輸出する際の準備金の撤廃が実施されることになった。
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2007年4月26日 |
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プーチン大統領が大統領教書のなかで、「安定化基金」 を 「国民福祉基金」 と呼ぶことを提唱し、その使途として、任意年金への共同融資と経済発展のための制度化への出資に使うことを提案する。
これにともない、2008年1月から 「安定化基金」 は 「予備基金 Резервный фонд 」(原油価格下落への備え) と「国民福祉基金 Фонд национального благосостояния 」(年金や経済発展に出資、別名 「次世代基金」)に改組さる。
2008年1月30日に、同日現在の安定化基金の残高 (3兆8,518 億ルーブル、1,573.8 億ドル) のうち、2007年GDP予測額 (30兆6,900億ルーブル) の10%に相当する3兆690億ルーブル (1,254億ドル) が 「予備基金」 に、残りの7,828億ルーブル (319.8 億ドル) が 「国民福祉基金」 に繰入れられた。
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2008年5月7日 |
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2008年3月2日に実施されたロシア連邦大統領選挙で、プーチン大統領が後継指名したD.A.メドヴェーヂェフ Дмитрий Анатольевич Медведев, 1965- が当選し、5月7日に第三代大統領に就任する。 メドヴェーヂェフ大統領は、大統領選勝利後の記者会見で、大統領としての方針は8年にわたるプーチン路線をそのまま継承することだと表明し、同日、V.V.プーチンを首相に指名、翌8日に連邦議会下院でも承認された。 このためプーチン首相との「双頭体制」による政権となった。
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2008年8月8日 |
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ロシア軍とグルジア軍が武力衝突する。 2008年8月7日にグルジア軍が南オセチア 「自治州」 へ侵攻したことで、翌8日にロシア軍が自国民の保護を主張して南オセチアへ派兵し、ロシア軍とグルジア軍の戦闘が始まった。 フランスの仲介で8月12日に休戦提案が行われ、13日、ロシアとグルジアが和平案に合意するが、ロシアがグルジアへ軍事介入したことを切っ掛けに、外国人投資家のロシア市場からの流出が始まった。
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2008年9月15日 |
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リーマン・ショック
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アメリカ合衆国の住宅バブル崩壊に端を発した金融機関での信用収縮の連鎖は、世界的金融危機を引き起こし、ロシア経済にも深刻な影響を及ぼした。
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主要経済指標の推移 |
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2009年 |
2010年 |
2011年予測 |
実質GDP成長率 (%) |
-5.6 |
4.0 |
4.3 |
消費者物価指数上昇率 (%) |
8.8 |
8.8 |
6.7 |
鉱工業生産指数上昇率 (%) |
-9.3 |
8.2 |
4.1 |
農業生産指数上昇率 (%) |
1.2 |
-9.9 |
8.5 |
設備投資額上昇率 (%) |
-16.2 |
6.0 |
9 |
失業率 (%) |
8.4 |
7.5 |
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外貨準備 (年末・億ドル) |
4,390 |
4,794 |
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為替 (年末・ルーブル/1ドル) |
30.24 |
30.48 |
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Источники: Росстат, Минфин, Банк России, расчеты ИКСИ/Госкомстат, ЦБР, АЛ "Веди"/и др.
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2009年5月15日 |
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大統領令 「ロシアの国益を損なう歴史捏造の試みに対するロシア連邦大統領直属の対策委員会について」 が承認される (2009年5月20日公布)。 Указ Президента Российской Федерации от 15 мая 2009 г. 549 "О Комиссии при Президенте Российской Федерации по противодействию попыткам фальсификации истории в ущерб интересам России" (Опубликовано 20 мая 2009 г.)”
無知から、または、故意に、歴史の解釈が塗り替えられ、歴史捏造の試みがより悪意に満ちた攻撃的なものになってきている現実に対して、
歴史的真実を擁護し、以前は全く明白であった事実をもう一度証明する必要性があるとして、ソヴェト時代の歴史的事実が歪曲されることを阻止するために、歴史捏造に対する統制機関が設立されることになった。
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2009年7月10日 |
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イタリアで開催された主要国首脳会議 (ラクイラ・サミット The G8 2009 in L’Aquila, Italy.) の閉幕後、ロシアのメドヴェーヂェフ大統領が 「未来の世界通貨連合 United future world currency」 からサミットに出席した各国首脳に寄贈されたサンプル貨幣を記者団に示しながら、ドルに代わる新国際準備通貨の導入に向けたロシアの強い意思を表明する。
一部に、このサンプル貨幣はロシアがサミット出席者に贈呈した、との混乱した情報が流れたが、このサンプル貨幣を贈呈した 「未来の世界通貨連合」 は、本部をローマに置き、統一貨幣の実現によって世界平和を目指している団体で、サンプル貨幣はベルギーで製造されたものであるという。
貨幣には 「多様性の統合 Unity in Diversity」 の銘と五大陸を表した5つの星が明記されている。
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ロシア通貨の変遷
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