ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について

 


 

 

はじめに、お断りします。
このサイトはプーチン大統領の側を支持しており、以下はそれに沿ったものです。

 

勝利を期して  За победу

勝利のために 齋田 章

 

 

2021年7月12日に、ロシアのプーチン大統領は 「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」 という論文を発表しました。論文はロシア語(およびウクライナ語)で書かれていますので、まだお読みでなければ、段落ごとに逐次日本語訳した下記をご覧ください。

このプーチン大統領の論文に対して、日本でもマスコミなどから 「プーチン史観は偏っている」 とか 「ご都合主義である」 とかの批判が出ていましたが、私には論文の内容に全く違和感がありません。 「偏った歴史認識」といった主張こそ、欧米NATOの情報戦略に取り込まれた、パクス・アメリカーナ(Pax Americana)至上主義的な偏向目線であるように思えます。

この論文が発表されて半年後にロシア軍がウクライナに侵攻しましたが、何故侵攻したのか、侵攻せざるを得なかったのか、この論文から垣間見えるように思います。

 


 

現在をよりよく理解し、未来を見据えるためには、歴史に目を向ける必要がある

まずは、プーチン大統領の論文(以下、プーチン論文) に沿って、プーチン大統領の、というよりロシアの、歴史認識を確認しておこうと思います。  è  歴史概観 をご覧ください。

歴史認識の違いは、隣接し、親しいはずの国々ほど深刻な問題です。 論文の前段多くを割いてロシアの歴史(延いてはウクライナの歴史) を語っているのは、ウクライナでの 「歴史の改竄」 を意識したためであったと思います。

ウクライナのエリートたちは、国境の問題 (注釈) を除いて、過去を否定することで自国の独立を正当化しようと考えた。 彼らは歴史を神話化し、書き直し、我々を結びつけるものすべてを排除し ...

※ 以降、論文からの引用は「緑色」で表記してあります。

(注釈: 「国境の問題」 とは、 「ソヴェト連邦の創設共和国は、1922年の条約を廃棄した後は、連邦に加盟した時の国境に戻らなければならない」) という 「原則」 のことで、ウクライナのエリートたちはこの原則を無視している、ということです。)

 


 

ロシア人とウクライナ人はひとつの民族であり、同じ言語で繋がり、同じ宗教で結ばれていた

ロシア人とウクライナ人はひとつの民族であり、一体不可分である。 しかし、近年、ロシアとウクライナの間の、 ひとつの歴史的・精神的空間の部分の間に壁が生じている。 それは我々の一体性を常に損ねようとしてきた勢力(ウクライナの民族主義勢力および欧米NATO諸国)が意図的にもたらしたもので、 彼らは、民族問題をもてあそび、人々の間に不和の種を蒔き、ひとつの民族を分断して、それぞれをけしかけて喧嘩させているのだ。

これに対してゼレンスキー氏は、嫌悪感をあらわにして 「ひとつの民族ではない」 と完全に否定した (日本経済新聞 2021年7月13日) とのことですが ...

 


 

三位一体

論文では、「本来は、三位一体のロシア民族であったものを、ソ連の民族政策によって三つの個別のスラヴ民族として、国家レベルで固定化した」 と述べています。

今日のウクライナは、完全にソヴェト時代に作り上げた物である。 ソ連の民族政策によって、大ロシア人、小ロシア人、白ロシア人からなる三位一体のロシア民族に代えて、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人という三つの個別のスラヴ民族として、国家レベルで固定化したのであり、そこでは夥しい程に歴史的なロシアを犠牲にしてきた

 


 

ひとつの言語

広大なユーラシア大陸にあって様々な民族と接しているロシアは、東西南北で民族的外見気質にある程度の相違があることは歪めませんが、それらをひとつに繋げている言語について検証してみたいと思います。

17世紀の初めに、合同教会の主教の一人であるヨシフ・ルツキーは、モスコヴィヤ(モスクワ大公の主権のもとに北東ロシアの政治的統一が達成されたモスクワ・ロシア) の住民がポーランド・リトアニア連邦国家からのロシア人(キエフ・ロシアの南西部) を自分たちの兄弟と呼んだこと、書き言葉はまったく同じであり、話し言葉は差異があるが微々たるものでることをローマに報告しています。

もちろん、何世紀にもわたって細分化され、様々な国家で生活する中で、地域的言語的な特殊性、方言が生まれたのでしょう。

いま私の手元に一冊の書籍 「ロシヤ文法 岩波書店 (1953年) 八杉貞利/木村彰一 共著」 があります。この書籍は、日本における 「ロシア語、ロシア学の父」 と言われる八杉貞利先生と、東京帝国大学の門下生 木村彰一先生との共著ですが、日本人によるロシア語文法書で、この書籍を越えるものはこれ以降現在に至るまで出されていないと言われています。ちなみに、木村彰一先生はポーランド語の大家でもありました。

この書籍 「ロシヤ文法」 の付録として、「ロシヤ語の系統とその方言」 「ロシヤ文語の変遷」 があり、巻末に「ロシア語方言分布図」が載っています。 このわずか数ページの中で、ロシア語・ウクライナ語・ベラルーシ(白ロシア)語について、音韻(発音)、形態(格と数に応じた格変化と語形変化) などが簡潔にまとめられています。


「ロシヤ文法」 岩波書店 (1953年) 八杉貞利、 木村彰一 共著
巻末 「ロシア語方言分布図」

この書籍 「ロシヤ文法」 では、ウクライナ語やベラルーシ語はロシア語の方言とされており、巻末の 「ロシア語方言分布図」 ではウクライナ方言、白ロシヤ方言となっています。 20世紀の中葉では、「ウクライナ語はロシア語の方言」 と日本の言語学者は見ていたのでしょう。

※ ロシヤ語/ロシア語の表記は、基本的には 「ロシア語」 としていますが、書名や見出しが 「ロシヤ語」 となっているものについては、それに従っています。

ウクライナ語とロシア語の間には、音韻の変移に規則性があり、言語構造・形態などに高い近似性があります。 それが方言程度のものなのか、それとも個別の言語に相当するのかは、私にはわかりませんが、「ひとつの言語」 といっていいほど近いことは確かです。 ただし、プーチン論文で 「ひとつの言語」 といっているのは、古ロシア語 сейчас мы называем его древнерусским のことで、現代ロシア語と現代ウクライナ語がひとつであるとはいっていません。 この論文自体、ロシア語のほか、ウクライナ語でも発表されているのですから。

 

 


 

ウクライナはソヴェト時代に作り上げられた

ウクライナにはソヴェト時代に多くの地域が編入されています。

  • 1939年、それより前にポーランドによって占領された土地はソヴェト連邦に返還された。 それらの重要な部分はソヴェト・ウクライナに併合された。
     
  • ルーマニアが1918年に占領したベッサラビアの一部とブコヴィナ北部が1940年に、黒海のズメイニー島が1948年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国に編入された。
     
  • 1954年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のクリミア州は、当時施行されていたその時点で効力のあった諸法規にひどく違反して、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された。
     
  • オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊後にチェコスロヴァキアにあったポトカルパト・ルーシの住民の大部分はルシン人であった。 これについて今はほとんど記憶に残っていないが、ソヴェト軍によるザカルパチアの解放後、この地域の正教会の住民議会は、ポトカルパト・ルーシをロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国に含めること、または直接ソヴェト連邦に、つまり別にカルパト・ロシア共和国とすることで、話し合った。 しかし、住民のこの意見は無視された。 そして1945年の夏、プラウダ紙に書かれたように、ザカルパト・ウクライナの 「ずっと以前の故郷であるウクライナとの」 再統一の歴史的決議文として発表されたのである。
     

このように、今日のウクライナは完全にソヴェト時代に作り上げた物である。 ウクライナがおびただしい程に歴史的なロシアを犠牲にして作られたことを我々は知っており、覚えている。

ソヴェト連邦では、連邦を構成する共和国間の境界は、もちろん、国境として認識されておらず、それらには本質において高度に中央集権化された、単一の国の枠内でという条件の付いた性質を有していた。
 

 


 

歴史の改竄(かいざん)

ウクライナのエリートたちは、国境の問題を除いて、過去を否定することで自国の独立を正当化しようと考えた。 彼らは歴史を神話化し、書き直し、我々を結びつけるものすべてを排除し、ウクライナがロシア帝国とソヴェト連邦の一部であった時代を占領の時期として語り始めた。 30年代初頭の集団化と飢饉という、我々にとって共通の悲劇を、ウクライナ人民の集団殺戮と偽った。è  歴史概観

 


 

「反ロシア」計画 (「アンチ・ロシア」プロジェクト)

ロシア語の制約
我々を団結させ、今も結びつけているものすべてが、攻撃を受けている。 まず第一に、ロシア語である。 「マイダン」新政権(親欧米派の諸政権)が、まず国家言語政策に関する法律を廃止しようとしたことを想起する。 そして、「権力の浄化」に関する法律、教育に関する法律が制定され、教育課程からロシア語を事実上排除してしまった。

強引なロシア離れ
最も嫌悪すべきことは、ウクライナのロシア人が何世代にもわたる祖先からの、自身のルーツを放棄することだけでなく、ロシアが彼らの敵であると信じることを強いていることである。 ロシアに対して攻撃的な、民族的に純粋な、ウクライナ国家の形成に向けた強制的同化への道筋は、我々に対する大量破壊兵器の使用に匹敵すると言っても過言ではない。 ロシア人とウクライナ人の間のそのような粗っぽい、人為的な断絶の結果として、ロシア人は全体として数十万人、さらには数百万人も減少する可能性がある。

我々の精神的な一体性も遠ざけている。 リトアニア大公国の時代のように、彼らは新しい教会区分設定 (2018年、ウクライナ内の正教会の宗派を統合し、ロシア正教会から独立した教会 「ウクライナ教会」の新設) を企てたのである。 政治的な目的を追求していることを隠すことなく、世俗的な政権は教会活動に無作法に介入し、正教の分裂、教会の強奪、そして司祭や修道士の迫害をもたらした。 ウクライナ正教会が、モスクワ総主教区との精神的な一体性を維持しながら広範な自治を行うことでさえ、彼らはまったく満足していない。 この目に見える、何世紀にもわたる我々の親族の象徴を、何としてでも破壊しなければならないのである。

 


 

ネオナチ讃美

ウクライナの代表が、ナチズムの英雄化を非難する国連総会の決議に繰り返し反対票を投じるのは当然だと思う。 (アンチ・ロシアの政策を採る親欧米)政権の保護の下で、生き残ったSS部隊の戦争犯罪者を讃える行進や「たいまつ行進」が行われている。 仲間全員を裏切ったマゼーパ (訳註1)、ポーランドの庇護をウクライナの土地で支払ったペトリューラ (訳註2)、そしてナチスと協力したバンデーラ (訳註3) は、国民的英雄の扱いになっている。 彼らは、常にウクライナの誇りとされてきた真の愛国者や勝利者の名前を若い世代の記憶から消すために、あらゆることをしているのだ。

(訳註1:イヴァン・マゼーパ(Иван Степанович Мазепа 1639-1709) — コサック国家のゲートマン。 大北方戦争でロシアのピョートル一世からスウェーデンのカール十二世に寝返り、ロシア正教会によって破門され、コサックの敗北のうちに病死した。)

(訳註2:シモン・ペトリューラ(Семен Васильевич Петлюра 1879-1926) — ソヴィエト政権に対抗したウクライナの民族主義者。 1919年にウクライナ人民共和国執政内閣の長。)

(訳註3:ステパーン・バンデーラ(Степан Андреевич Бандера 1909-1959) — ウクライナ民族解放運動の指導者。 ウクライナ民族主義者組織(OUN)の指導者。 バンデーラの生誕を記念して例年1月1日に開催される 「たいまつ行進」 には、ネオナチ勢力であるスヴォボーダの党旗などが掲げられている。)

第二次大戦末期に、当時ポーランド領でナチス・ドイツ占領下にあったヴォルィーニと東ガリシアで、ウクライナ蜂起軍 (UPA) はポーランド人の大虐殺 (ジェノサイド) を行っており、UPAの指導者であったバンデーラをウクライナで 「国民的英雄」 としていることに対して、ロシアだけでなく、ポーランドでも反発し非難しています。
現ウクライナ政権の内外に、バンデーラ崇拝者が多数いることから、ウクライナから 「ネオナチ」 の黒い影を払拭することは極めて困難です。

(ウクライナにおける 「ネオナチ問題」) / (ウクライナには 「ネオナチ」 という象がいる)  

 


 

欧米諸国に経済的にだけでなく、軍事的にも急接近

西側諸国はウクライナの内政に直接介入し、クーデターを支援した。 過激な民族主義者たちが破城槌として行動した。 彼らのスローガン、イデオロギー、多くの点で露骨な攻撃的ロシア恐怖症は、ウクライナの国家政策の基礎となった。

ウクライナ政権の諸機関や特殊部隊および軍隊に対する外国人顧問の監督、 ウクライナ領土の軍事的「馴化」、およびNATOの基盤施設の配備、などを含めた、直接的な外国の統制も行われている。

 


 

ウクライナを救えるのは、ロシアだけ

ロシア連邦は、ウクライナが独立国としてやっていけるよう、多くのことをした。 困難な1990年代にも2000年以降も、我々はウクライナに多大な支援を行った。

ウクライナとロシアは、ひとつの経済システムとして何十年、何世紀にもわたって発展してきた。 我々は自然で互いに補完的な経済パートナーである。

ウクライナの指導者たちは、独立を宣言した際に、ウクライナ経済が主要国のひとつになり、人々の生活水準がヨーロッパで最も高いもののひとつになることを約束した。

かつてウクライナだけでなくソヴェト連邦全体が誇りとしていた巨大ハイテク産業は、いまや休眠している。 過去10年間で、機械産業の生産量は42%減少した。 ウクライナでは30年間で電力生産量がほぼ半減しているといった現象からも、工業の衰退と経済全体の劣化の程がうかがえる。 そして最後に、IMFによると、2019年には、コロナウイルスが流行する前でさえ、ウクライナの1人当たりGDPは4,000ドル未満で、これは、アルバニア共和国、モルドバ共和国、そして未承認のコソボの下にある。今日ウクライナは、ヨーロッパで最も貧しい国である。

これは誰に罪があるのか。 ウクライナの民衆か。 もちろん違う。 すなわち、ウクライナの諸政権が浪費し、多くの世代の業績を吹き飛ばしたのである。

ウクライナの真の主権は、正にロシアとの協力において可能であると確信している。 我々の精神的、人間的、文明的な絆は、何世紀にもわたって形成され、同じ起源から始まり、共通の体験、成果と勝利によって強固になった。 我々の親族関係は、世代から世代へと受け継がれてきた。 それは、心の中にあり、現代のロシアとウクライナに住む人々の記憶の中にあり、何百万もの家族を結びつける血縁の中にある。 同時に我々は常に、何倍も強く、より成功してきた。 正に、我々はひとつの民族ではないか。

 


 

前述のとおり、プーチン論文が発表されたのは2021年7月12日、それから半年置いて、翌22年2月24日に侵攻が開始されました。 この半年の間、プーチン大統領は、ロシア軍をベラルーシ国境に即応態勢で待機させ、論文に対するゼレンスキー政権の対応を見定めていたのだと思います。 しかし、ウクライナ側の反応は極めて冷ややかなものでした。 プーチン論文は、今でもロシア大統領府のホームページで公開されています。 これは、ロシア政府の公式書簡であると思います。 プーチン論文は、ロシアのウクライナへの単なる 「想い」 ではなく、ウクライナに対する 「警鐘」 でした。 ゼレンスキーの無策のため、それが半年間の執行猶予の末の 「最後通告」 になってしまったのです。

この半年の間にゼレンスキーが適切な 「処置 (論文で示された課題を解消するための外交的努力など)」 を打っておれば、その後の悲惨な状態には陥らなかったと思います。 侵攻したロシアだけを一方的に非難するのではなく、ウクライナがこの論文で指摘されている事柄に対して、真摯にどう応えるかが、重要ではなかったかと思います。

少しだけゼレンスキーを擁護するとしたら、「スヴォボーダ」 などのネオナチ勢力によって大統領に担ぎ上げられた彼としては、上掲の 「ネオナチ讃美」 ひとつをとっても、その勢力を政権内から一掃することは不可能であると思います。 しかし、ネオナチ勢力の一掃を断行しなければ、ウクライナに未来はありません。 
(ウクライナにおける 「ネオナチ問題」) / (ウクライナには 「ネオナチ」 という象がいる)

ネオナチの極右民族主義政党 「スヴォボーダ」 の党章。
ウクライナには、「スヴォボーダ」 のほかにも、数多くのネ
オナチ勢力が存在する。 「アゾフ連隊」 もそのひとつ。 

 


 

ウクライナ市民とロシアとの関係は修復できるか

侵攻を始めてみて、プーチン大統領やロシア軍は誤算に気づいたと思います。 短期間で終了するはずの軍事作戦は、欧米NATOによる武器装備品や軍事情報の想定外の大量支援のため、そうはなりませんでした。 それによって、ウクライナ市民の被害は拡大し、悲惨な状況も長期化して、今は終わりが見えません。 この責任の過半は欧米NATOやゼレンスキー政権にあると、私は思います。

今後、ウクライナ市民とロシアとの関係は修復できるのでしょうか。 これについては、前例があります。

78年前、日本はアメリカ軍の無差別空爆などによって、数多くの都市が焼け野原にされ、 さらには原子爆弾まで投下されて、数十万人から百万人ほどの一般庶民の命が奪われました。 (斯く言う私も、記憶は全くありませんが、生後1か月の首も座らない状態で母に背負われて防空壕へ避難したと聞いています。) それでありながら、戦争が終わると間もなく、多くの市民は米軍中心の「進駐軍」を何の抵抗もなく迎い入れ (実際は受け入れざるをえなかったのでしょうが)、積極的にすり寄っていきました。 そして、現在ではあらゆる面でアメリカ文化に芯まで染まり、膨大な国家予算を費やして軍事同盟の更なる深化へと踏み込むことまでもが取り沙汰されているあり様です。 ウクライナの市民は、日本人ほどひどい健忘症だとは思いませんが、以前のような親密さを取り戻せることは、日本とアメリカ合衆国の例を見ても、疑いの余地がありません。 時の政権次第ではありますが ...。   (2023.03.16)

 


 

ゼレンスキーは木偶(でく)人形か

この1年あまり、テレビ画面にウクライナ大統領のゼレンスキーが映し出されるたびに不快感を覚えていたが、一昨日 夕がた6時のNHKニュースを見て、その理由がわかったような気がする。  (2023年4月2日 18:00 NHKニュース)

ニュースの中でゼレンスキーは 「5か月の男の子がロシア軍の攻撃で殺害された」 と、強い調子でロシアを非難していた。

毎度のことながら、民間人の死者が出ると、例の髭面で悲壮然として、一方的にロシア側を非難する。 しかし、今回のような生後5か月の赤ん坊に限らず、何か月も前から 「戦場」 になっている都市 (アヴヂェーヱヴカ Авдеевка/アウディーイウカ Авдіївка ) に 住民がなぜ居残っていたのか不思議である。 住民が退避することをロシア側が拒否したとでも言うのであろうか。 住民が都市から出ることを嫌がったとしても、強制的に退去させるべきであったのではないか。 それだけの時間はあったはずである。 ウクライナ軍は、民間人が混じっておれば攻撃されないとでも考えていたのであろうか。 これこそ 「人間の盾」 ではないか。

今回の 「事故」 は、ウクライナ側が故意に仕掛けたのではないかと疑いたくもなる。 攻撃したのはロシア軍であっても、赤ん坊を含めた自国民を盾に使ったのはウクライナ軍である。 それを白々しくも、自分たちには全く非がないような振りをして、悲壮感を滲ませた渋い顔でロシアを責めまくるとは、ゼレンスキーは 「役者」 である。 年中同じ調子でやられては、パフォーマンスが鼻につく。 もっともこれは、彼の独り芝居というよりも、アメリカCIAあるいはイギリス諜報機関あたりで情報戦略・謀略技術の訓練を受けた 「演出家」 どもがウクライナ大統領府の中にいて、もしかすると、ゼレンスキーは彼らに操られている木偶 (でく) 人形に過ぎないのかも知れない。 (2023.04.04)

 

そういえば、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルが、「ウクライナ軍が人口密集地域で活動する際に市民を危険にさらし、戦時国際法に違反する状況を確認したと指摘」 し、ウクライナ政府に対して 「軍を人口密集地域から離れた場所に配置するか、全ての民間人を避難させるよう求めた」 との報告書を2022年8月4日に公表した、といった報道を目にしたことを思い出した。  (アムネスティ国際ニュース 2022年8月4日)

この報告書では、さらに、ハリコフ、ドネツク、ルガンスク、ニコラエフの各州にある19の自治体で病院5か所、学校22か所をウクライナ軍が 「事実上の軍事基地」 に転用しており、学校は閉鎖されていたとはいえ、民間人居住地域内に所在していたことをアムネスティの調査員が確認した、と続けている。

ウクライナ政府の抗議によってこの報告書は尻つぼみ状態になったようであるが、自国の民間人を盾にするのはウクライナ軍の常套戦術であるようだ。  (2023.04.14)

 

またしても、例の如く ...

2023年4月26日、NHKの朝6時半のニュースで、「ウクライナ東部ハリコフ州のクピャンスクで25日、歴史博物館が攻撃され、2人が死亡し10人がけがをした」 として、ゼレンスキーが攻撃を 「強く」 非難したと報じていた。 (2023年4月26日 6時35分 NHKニュース)

この攻撃の原因は、ウクライナ軍が歴史博物館を 「事実上の軍事基地」 に転用していたためではないかと、ついつい思ってしまう。 その 「真実」 は知らないが、このように思わせてしまうことに、ゼレンスキーの罪深さがある。 こうした責任の転嫁は、もういい加減にしてほしい。 また、この手のニュースを流すことは、ウクライナ側の謀略戦に加担していることになるものと、NHKは自覚すべきである。  (2023.04.26)